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9話 元影武者、再びまみえること

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Dominion

前の話 ⇒ 1話 影武者、職を失うこと

    ⇒ 1.9話 * 夜行列車にて *

    ⇒ 2話 元影武者、面接をうけること

    3話 元影武者、お使いに行くこと

    4話 元影武者、花を買うこと

    ⇒ 5話 元影武者、新規任務を賜ること

    ⇒ 6話 元影武者、手紙を書くこと

    ⇒ 7話 元影武者、与り知らぬこと

    ⇒ 8話 元影武者、祭へ行くこと

***元影武者、再びまみえること***

 冬季の到来により、日中だというのに吐く息まで白い。
 鼻先はすでに冷えてきており、自分ではよく見えないがきっと赤くなっていることだろう。この辺りの冬季は、明け方には地面から霧が立ち込め真っ白になり、平素の美しい景観すら見渡せなくなってしまう。

 朝食後、お屋敷で借りた馬を軽快に走らせてきたものの、霧が晴れたところで穏やかな牧草地が広がるばかりで他にはなにもなかった。
 切なく鳴り始めた腹を撫でながら項垂れる。もうすぐ昼時というに、屋台ひとつ見当たらなかった。ここまで連れてきてくれた馬に、せめて水くらいやりたいのだが井戸すら見当たらない。
「……申し訳ないです、ジャスティン号。水を持参してくるべきでした」
首筋を軽く叩き謝罪すると、わずかに目を細め許してくれた。心の広い馬なのである。

 休暇の私が本日赴いたのは、夏のお国の掲げる神子宗教の秋国支部のひとつである。祭で見かけた白布の老若男女が気になり問うてみたところ、
『あれはたぶん、夏の民じゃなくて教会のやつだろう』
とルカ先輩に言われ、気になって来てしまったのだ。
 先の戦争が始まるよりずっと前から、大陸各地には夏のお国の宗教施設があり(一説によると婚姻などで他国へやられた娘や息子、またその2世3世のために建てられたものらしい)、祭のときだけ彼らも遊びに来るとの話であった。
『? あの厳しい宗教の民が、他国の土地神を祀った催しに? なぜです?』
思わず疑問を口にしたが、先輩は首を捻った。
『さぁ? 連中とは話したこともないからな』
俺もよく知らない、とのことであった。

 先輩には『ジェシカ様に訊いたらどうだ、たぶんご存じだぞ』と勧められたが、当のジェシカ様は連日お忙しそうで、とてもじゃないが世間話ができる雰囲気ではなかった。
 そのうち、依頼されていた祭の感想を報告する予定も日程が幾度も延期され、ついには取りやめになってしまった。
 勝手に報告書にしたためていたのが功を奏し、リック氏に引き渡して駄賃と労いの言伝てを頂戴したものの、可能ならお喜びになるところをこの目で見たかった、というのが正直な感想だった。
 聞いたところによると、どうも先日の祭の責任者であったジェシカ様は、祭の最中に起こったいくつかの事件に大層心を痛められ、そして落ち込んでおられるらしい。自警団の捜査にも進んで協力されているそうで、そのせいでお忙しいらしかった。
 のどかなこの土地で、刺傷事件というのはそれほど大ごとであったらしい。

 外套がズレてきたので羽織りなおす。借り物なので少し大きい。帝国男性が好みそうな、夜に似た深い紺色であった。フードを被りなおした私の下で、ジャスティン号が耳をそばだてた。
 ようやく見えてきた、荒野に突然現れたかのように聳え立つ場違いな白い建物を見つめ、私は無意識に胸を押さえていた。
 春の民にとって唯一隣接していない夏のお国は、まさに未知が溢れる魅惑の地。情報が少なく、そしてその閉鎖的な国民性から、なにを問うてもロクに教えてくれない夏のお国のことが春の民はもう気になって気になって仕方がないのだ。
 一応こちらに向かうにあたり、お屋敷で同じ下働きをしている皆さんにいくらか聞き取りをおこなってみたものの、皆あまり関わりたくないのかそれとも関心がないのか。普段なら訊いてもいないことまで教えてくれるものを、なにをどう問うても、
『結局のところよくわからないし知らない』
『これまで建物に寄ったこともないし、関わる機会もなかった』
との回答しか得られず、好奇心は一層膨らむばかりであった。

 来たものの突然訪ねていっていいものか悩んでいると、どこからやってきたのか浮浪者と思しき襤褸を纏った者たちが、施設の前に列をなして並び出した。顔見知りなのか互いに簡単な挨拶をしあい、今日はなにが出るかねぇなどとのどかに嘯いていた。
 悩みつつその後続へと向かうと、彼らから形容しがたい異臭がしていた。家畜や飼料の臭いに慣れていなければ、とてもじゃないがここにはいられなかったに違いない。
 馬を引いてやってきた私を見て、年のいった父子と思しき体型のよく似た最後尾のふたり組が、目を剥いて飛び上がった。
 父親らしき中年男性の顔が赤黒く変わった。

「、帝国軍め!! なにしに来た!! あっちへ行け!!」
 剣幕に驚いていると、列に並んでいた人間が一斉に怯えた顔で振り向き、怯えつつもグッと睨みつけてきた。この国で暮らして初めてのことかもしれない、これほどまっすぐな帝国への悪感情に触れるのは。
「――なにやら誤解があるようです。私は帝国軍とも自警団とも関わりありません、ただの一市民です」
「嘘をつけ!! そいつは軍馬じゃないか! 違うならなんでここにいるんだ! なにしに来たってんだ!!」
「井戸の場所を伺いたくまいりました。列があったので並んでみた次第です」
先日の祭が楽しすぎて、おかしな癖がついてしまったのである。
「ところで、こちらはどういった目的の列か伺っても?」
「俺たちは飯をもらいに来たんだよ、あんたは違うのか?」
息子の方が困ったような顔をして、私と馬とを交互に見た。

 息子曰く、本日は一般開放日らしく、中で行われるお祈りに参加すると昼食が提供されるそうである。彼らは定期的に通う敬虔な信徒ではなく、食事の日にだけ訪れる、いわゆるにわか信者というわけだ。
 そんな彼らにとって私のような新参者は、帝国云々の誤解を差し引いても自分の取り分を減らす邪魔な存在なのかもしれない。
「それは初耳でした。水場を伺い次第、すぐにお暇します」
 帝国軍でも食事目当てでもないとわかり安心したのか、私を睨みつけていた視線の大半は施設の入口へと戻った。

 先ほど怒鳴ってきた父親の方はまだ気に食わないのかそっぽを向き、口の中でいつまでもブツブツと呪詛を吐き続けていた。息子は申し訳なさそうに私に小声で詫びつつ、かち合った視線を気まずそうに逸らした。
「……あんたはなんで井戸を? 荷物もないが旅人か?」
「馬に水をやりたくて彷徨っておりました。平素は春との国境のお屋敷で下働きをしております。土地勘のない場所に行ってみたいと思い立ち、今日は借り馬で散策しておりました。そのうちこちらに辿り着きまして」
建前を述べると、水なら中で貰えばいいよ、と男は頷いた。

 そのうち、施設の中から祭の時と同じ白布の羽織の男がふたり現れた。
 壁のようだった白い門戸が重い音を立てて開かれ、その重々しい音に反し、「おかえりなさい」と明るく声を掛けられるのを、私は不思議な気持ちで聞いた。並んでいた彼らはどこか嬉しそうに「ただいま」と述べており、促され中へと入って行った。
 私の前の中年親子の順番になり、おかえりと言われた先ほどの父親が返事もせず猛然とこちらを指さした。
「こいつは帝国軍の手先だ!! 中に入れたらダメだ!!」
誰より慌てたのは息子のほうであった。
「、おじさん、それは違うって話だったろ!」
「違わない!! 俺は知ってる!! こうやって中に入ってきて殺すんだ!!」
 慌てて息子(おじさんと呼んだところを見るに違うのかもしれない)の方が父親(だと思ったが違うのかもしれない)を捕まえるが、男は暴れながらなおも私のことを睨みつけた。

「~~俺は騙されねぇぞ!! 皆、皆、騙されやがって! だから惨い目に遭うんだ!!」
白布の男たちが慣れた様子で寄っていき、男の両手をとった。
「私どものことを心配してくださったんですね。いつもありがとうございます」
「行くあてのないやつらがたくさんいるだろ!? ここがなくなったら困るやつが沢山いるんだ!! っ帝国軍なんか入れたら、入れたら、……」
途端に目から光が失われ真っ黒になり、黙りこくって震えだしてしまった。
 背中をさする白布たちの腕をグッと掴み、縋るような目で見た。
「……助けてくれ」
「もちろんです。もう大丈夫ですよ」
白布の男は男の背中を数度、幼い子をあやすように優しく叩いた。
「あの方とは我々がお話ししますから、おふたりはどうぞ中に」
いつもすみません、行こうかおじさん、と息子風の男が促すと、急に静かになった男は背中を丸めフラフラと中へと入っていった。

「――おかえりなさい」
 向けられた表情はにこやかであったが、微笑む男たちの目の奥からは強い警戒が見てとれた。
 そういえば、夏のお国は大の帝国嫌いであった。ここは支部施設であり秋のお国の人間が住むとはいえ、夏のお国に母体がある宗教施設である。やはり帝国軍の印象は相当悪いのだろう。当然と言えば当然である。
 とはいえ後ろ暗いところはなかった。
「初めてお見えになった方ですね?」
「はい。初めて伺いました」
「私どもが見るに帝国に属する方ではないようですが、なぜあのような誤解を?」
一般的な目で見れば、私のような小柄な者と帝国軍人を間違えることはまずない。
「馬を連れているので、威圧感があったのかもしれません」
 なにせジャスティン号は、かつて秋の軍部が誇った軍馬の子孫である。あの男が昔見たかもしれない、恐ろしい帝国軍の馬と勘違いされても不思議はなかった。

「お察しの通り、私はかの団体とは無関係です。使用人としてお世話になっているお屋敷が、春との国境にございます。早馬で確認いただいても構いません」
「その必要はありません。我々はここに訪れるすべてのご縁を信じておりますから」
 どこまでが本心か謎だが、男たちは胸に手を当てそう述べた。しかし改めて彼らは目配せし合うと、やや言いづらそうに口を開いた。
「せっかくですので、ぜひ中で共に祈りを捧げてもらえればと思うのですが……」
 一般生活はまだまだ勉強中ではあるが、私とてこのくらいの空気は読める。
「いえ、お暇します。皆様の活動に水を差すのは私も本意ではありません。故意でなかったとはいえ怖がらせてしまい、先ほどの方にも申し訳ない限りです。ただ、できれば馬にお水だけ頂戴したく」
 招かれざる客となっては、仕方がない。帝国におわすイリーディア様に、珍しい夏のお国の話を仕入れてお届けしたかったのだが、日を改めるしかないと思った。

「なにかあったのですか?」
 門の影から顔が覗いていた。ジェシカ様くらいの年だろうか、まだ若い女性であった。
 たじろぐ男たちが返事をする前に寄ってきて、ちらりと私を一瞥した。目深に被られた彼女の白布のフードの中には、栗毛と菫色の瞳があった。この辺りでよく見かける容姿だ。
 彼女はフードを下ろすと、なんの屈託もない顔でニコリと微笑んだ。

「おかえりなさい。お祈りにいらした方ですね」

***

 どうも彼女はこの施設でそれなりの権力を有するらしく、門番と思しき男性たちは、現れた彼女より年嵩であるにも関わらずその登場に明らかに動揺していた。私が見るに気圧されるという類のものではなかった。もっとずっと明るくて眩しい、羨望に等しい目であった。
 彼女のウェーブのかかった栗毛は、無造作にひとつにまとめられ馬のしっぽのようになっており、瞳には子どもにも似た好奇心と他者への信頼が滲んでいた。一見素朴に見える装いにも関わらず、彼女は目を惹いて美しかった。ここに千人いれば千人が美人と認めるだろう。
 もちろん、大陸史上一番美しいに違いないイリーディア様とは比ぶべくもないが、お嬢様以外の人間を美醜の観点で見たのは初めてであった。

 門番から経緯を聞かされた彼女は、軽い感じで即決した。
「でしたら離れにお連れしましょうか! せっかくお越しになった方に、このままお帰りいただくのは心苦しいですもの」
一も二もなく門番たちは頷いた。当事者の私の意志など、彼らにとってはどうでもいいのだろう。

 彼女は私を敷地内へとにこやかに促すと、建物には入らず左脇へと逸れた。
 普段私がお世話になっているお屋敷には劣るものの充分な広さで、先ほどの大きな外扉の中には建物がひとつと、その後ろに離れと思しき建物がふたつ連なり、離れの横には野菜畑が広がり2~3匹用の厩まであった。
 厩にジャスティン号を繋ぐと、世話はここの人間がするから安心するよう言われ、私はさらに促されて屋内用と思しきものに履き替え、建物の離れへと踏み込んだ。先ほど列になり並んでいた顔ぶれは中にはひとりもおらず、白布を羽織った数歳から10代後半ほどの子どもたちが、警戒心の篭る目で私を見上げた。
 建物の中だから目立つのだろう。フードをおろすと子どもたちは目を丸くして固まった。静かだった場が妙なザワつきをみせた。

 幼児がひとり、目を輝かせた少年少女たちにそっと背中を押され、私の隣にいた彼女に飛びついた。彼女に掻きついたまま、門番たちが彼女に向けていた熱量と同じ視線を私にくれると、なにかモソモソと耳打ちしだした。
「うん? ううん、この方はゴハン信者さんで、」
「でもシャンティ、ぜったいそうだよ……」
振り返った彼女は私の顔を見て息を飲んだ。
「、マリエラッ!!」
「私はレオナルドです」
しばらく私の顔をまじまじと見つめ、子どもたちと共に頭の先から爪の先までじっくりと眺められた。
「……お人違いと存じますが、皆さんのお知り合いで私と似ている方でもいらっしゃるのでしょうか? 大陸には同じ顔の者が3人いると申しますし……」
 なんでもない顔で述べたものの、内心戦々恐々としていた。
 まさかと思うが、イリーディア様の元影武者が私の他にもこの近辺にいるのだろうか。成人を迎えた影武者は私が初めてと仰られたので安心しきっていたが、よくよく考えたら任期満了前にお役御免になって流れついた者がいたっておかしくない。

 だが、シャンティと呼ばれた彼女は苦笑しつつ手をはためかせた。
「これは失礼を。思わず取り乱してしまいました」
マリエラではないのですって、と言いながら女児の頭をなぜた。
「マリエラという女性がおられるので?」
「いえ、人の話ではないのです。美の使徒様をご存じないですか? 神子様へ遣わされた使徒のひとり、万物の美の頂点、至高の美しさ。それこそが使徒マリエラです」
 自分の首がわずかに傾くのを感じた。美しさに名をつけるなら、それはイリーディア様のお名前であるべきだ。
「でしたら、やはり違うようです。私は私より美しい方を存じております」
「もっと美しい人が?? 本当に??」
驚いた顔を見て、どこか誇らしい気持ちであった。
「嘘偽りございません、私など到底及ばぬ方です」
「ならばその方が美の使徒様でしょうか」
その可能性は否めませんと返すと、大陸は広いですねとシャンティは笑った。

 追及しようとなおも引っ付きまわる子どもたちの背中を優しくなぜると、彼女は突然頭の上でパァンと一発手を叩き、「どうしましょう!? 厩に来ているカッコいいお馬さんの、ゴハンのお世話がまだなのです!!」と嘯いた。
 途端に目を輝かせ、我先にと手を挙げた何人もの子どもたちを、世話役と思しき少年たちがご機嫌で連れていった。
「――さ、こちらへ」
 建物のさらに奥へと促された。
 先ほどとは打って変わり人影は消え、壁を隔てたことで人の声も少しずつ遠ざかっていく。彼女はこちらから声を掛けねば黙したまま一言も発さず、鳩のように胸を張り堂々と先を歩いていた。
 辺りを数度見回すと最奥の一室へと入ってゆき、彼女は白い羽織を脱ぐと壁際の木の杭のようなものにそっと掛け、異国情緒溢れる柄物の絨毯の上に座して私を見上げた。
 羽織っていた白布で気づかなかったが、彼女は暖かそうな素材の見慣れぬ異国のドレスを身にまとっていた。香でも焚かれていたのか部屋では嗅ぎ慣れない香りがし、衣類だの小物だの個人的なものが視界に入り、私はそっと目を逸らした。どうやら彼女の私室らしい。

「どうぞお座りになって」
 そちらへと促され、彼女に倣い対面に尻をつけた。椅子のない部屋になんて初めて入った。絨毯の肌触りもどうも落ち着かない。
 彼女は私との間に木製の茶托を置くと、取っ手のないカップを乗せ茶を注ぎだした。味が気になるものの、慣れない香りがして手を伸ばせなかった。
 それを意に介する様子もなく彼女は自分のカップに口を付け、目が合うと微笑んだ。いま気づいたがその両頬にはえくぼがあり、本来なら高嶺の花に見えるであろう彼女に、どこか親しみやすさを感じさせられた。

「そういえば自己紹介がまだでしたね。私は当施設のシャンティです。貴方はたしか、レオナルドさんと仰いましたか。レオはたしか外大陸にいる獅子ですね、勇ましくて素敵です」
と言われ、ジェシカ様に褒められたときと同じ気分になった。
「ありがとうございます。ところでシャンティさん」
 唐突に彼女は大袈裟に胸を押さえ、身悶えした。
「やはりいい響き! シャンティでよろしいですよ! 先日ようやく賜れた使徒の御名でして、実はずっとはしゃいでいるのです!」
もう一度呼んでくださいません?? と言われ、気の抜ける心地がした。
 ふざけているのか真面目に言っているのかまるでわからない、掴みどころのない人だと思った。しかしこういった態度の人間は、場を和ませるために発言している場合が多い。敵意がないことの表れだろう。
「でしたらシャンティ、私のこともお気軽にレオナルドとお呼びください」
では遠慮なく、と微笑んだ。

 シャンティは軽く窓の外を見やり、つられて私も見上げた。やや傾きかけてはいたが陽は高く、まだ昼前である。帝国の冬季に比べると充分長く感じられた。
「……今更ですが、馬の食事に留まらず、私まで中に招いていただいてよかったのでしょうか」
「これもなにかのご縁でしょう、お気になさらないで。お祈りまでおしゃべりでもして待ってましょうか、なにか相談事や心配事はおあり?」
このシャンティが伺いますが、いかが? とカップ片手に人慣れした笑顔を見せた。
「? こちらではお悩み相談もなさっているのですか」
「むしろそれが本来の意義と申しましょうか。神子様の支部施設はもともと、大陸の民の安息を願い、その魂に寄り添うためにつくられた場所です。
 とはいえ、相談を受けられるのは使徒の名を持つ者か神官様だけなので、人手はまったく足りておりません」
需要に供給が追い付かないのは大陸の常ですね、とシャンティは肩をすくめた。

 聞きたいことなど、春の地で舞う花弁の数ほどあった。
「でしたら、お言葉に甘えていくつか伺ってもよろしいですか。
 浅学につきご教授いただきたいのです。先ほどの、マリエラというのは一体どういった存在なのでしょう。神子宗教に明るくないもので、使徒という存在も初めて耳にした次第です」
 イリーディア様は、神子宗教にお詳しくなかった。なので私も学んでいない。
 というより、春の民は皆そうであった。春の民は夏のお国にとめどない関心を寄せているが、彼らの根底にある宗教とはずっと距離を置くよう心掛けてきた。
 これ以上、気になることができたら怖いからである。

 春の民は好奇心が旺盛で、知れば知るほど好きになってしまう。要は入れ込みやすいのである。そして気になったら調べつくしてしまう自分たちの性分も、我々はよくわかっていた。
 大陸のはじめからあったと自称する夏のお国の宗教が、我々春の民の好奇心を刺激しないわけがない。そして好奇心を抑えきれなくなるのが怖いなら、最初から触れなければよいのである。
 これは事実らしいのだが、かつて迂闊にも神子宗教の神殿を観光気分で訪れた春の先人たちが、戻るなり自国の屋敷も地位も王家へ返上し、取って返すように夏のお国へ移住したのち行方知れずになったという怪談じみた話がある。
 その先人たちの暴挙ともいえる奇行に触れ、国家とお家の繁栄を信条の第一に掲げる大多数の春の民は、神子宗教、ひいては神国が刊行する『大陸聖典』の存在にどれだけ心惹かれても踏み込まぬよう、固く心に誓ったのである。

 聖典に関する質問をいただくなんて、とシャンティは明るく応じた。
「美の使徒様は大陸に4人おわす神のうち、春の神様が遣わしたひとりです。この広大な大陸から美を見い出す力、そしてそれを歓び尊ぶ心を人にもたらしたと言われています。
 12ないし13人いる使徒様の大半は、生きるための力を人々に授けました。ですが美の使徒様はその中でも珍しい、心を豊かにするために遣わされた存在なのです」
 たしかに、美しさを尊ぶというのは生命の維持に直結しない。貴族の美術品収集のようなものと同じと考えれば、生活に余裕ができてから初めて行われるものだろう。むしろ余暇や娯楽に近い部分ではないだろうか。
 それが春の神とやらから遣わされたというのも、言い得て妙な話だ。他国と違い、太古の昔から春の地にはそれだけ余裕があると考えられていたわけか。

 シャンティの言葉は淀みなかった。
「美の使徒様は息を飲むほどの美しさと伝えられていて、ひとたび目が合えば呼吸の仕方も忘れてしまうのだとか。『大陸聖典』には、使徒様を求めた大きな騒乱が幾度も起こったと記されています。
 人々の争いに心を痛めた使徒様は、神子様を支えるお役目を終えると早々に春の神の御許へ戻り、人前にはめったに現れなかったそうです。
 使徒様は見る者を魅了し幸福にしましたが、その美しさが使徒様本人を幸せにすることはなかったのです」
 ……つくづくそれは、イリーディア様のことでは? と思った。
 乞われすぎて心を痛め、人目を避けるようになったというお優しい逸話も、至高の存在であることも、私が見てきたお嬢様のお姿に限りなく近いものだった。
「……なんだか寂しいお話ですね」
思わず溢してしまった私に、シャンティは微笑んだ。

「このお話には続きがあります。
 あるとき使徒様は、道に迷っている人間に乞われ助力をします。その者は美の使徒様に驚くどころか言及すらせず、礼だけを述べてあっさり去ってしまいました」
なぜだと思います? と言われ首を捻った。きっとそう難しい理由ではないのだろう。
「盲目だったのでは」
「ご名答です。盲者と出会い、使徒様は初めて自分の外見に煩わされずに人間と話すことができました。それからふたりは友人になるのですが、あるとき使徒様はこんな軽口を叩きます」

『――君が可哀想でならない。
 私はこれほど美しく、私と親しいことを知れば大陸の誰もが羨むのに。
 君は私の美しさを表現することはおろか、その瞳で見つめることもできない』
されど、盲者はこう答えます。
『――目が見えずとも私は、出会ったときからずっと君が美しいことを知っている。
 足音も声も、そして吐息すらも、君の生み出す音はすべてが優しく美しい。
 なのに君はそんなことも知らない』

 私は黙って胸を押さえていた。春の民は知らない話を聞くのが好きすぎるのである。初めて訪れた場所で動揺を見せたくなかった。
「使徒様は盲者が儚くなるまで、たびたび訪れては親交を育んだと言われています」
 美の使徒は得難いその友を愛したに違いない。私の主人が、帝国の旦那様を愛しているように。

「――質問の答えになったでしょうか? 絵本もありますよ、ご覧になる?」
使徒様に性別はないので女性名のマリエラだったり男性名だったり、絵本によって盲者の年齢や性別も違って面白いですよ!
 ……などと善意しかない笑顔で言われ、そして興味を持ちしっかり頷きかけている自分に気が付き、私はいよいよ怖くなった。
 所詮私も春の民。興味のままに突き進み、知らぬ間にこの宗教に入れ込んでしまうのかもしれない。
 イリーディア様の元へ戻り、この生涯をかけてお仕えすることが私の歩むべき人生であり命題であるのに。これ以上は、踏み込むまいと思った。

「……大変、興味深く拝聴しました。絵本はまたの機会に。
 話は変わりますが、先日の豊穣の祭で刺繍の羽織を纏った方々をお見掛けしたのですが、こちらにお住まいの皆さんで相違ないでしょうか」
「? ええ、おそらく我々でしょう。国境屋敷の末のお嬢様が招待してくださるので、毎年皆で遊びに伺っています」
ジェシカ様が、と口から洩れ出た。
「いつも『お祭で使いきれなかった食材を寄付するので取りに来るように』と、我々が遊びに出る口実をつくってくださるのです」
自腹で何枚かずつ無料券まで用意してくださるんですよ、お優しいでしょう? とシャンティは述べた。
「ここで暮らす者は、大半が孤児か捨て子です。お祭はおろか、外部の人間と接する機会も出歩いた経験もほとんどありません。
 初めてこちらにおいでになった際にその話をしましたら、ずいぶん衝撃を受けられたようで、それからそのようにもてなしてくださるのです」
おそらくジェシカ様は、一度も祭に行ったことがないと私が打ち明けたときと同じ表情をなさったに違いない。

「? ジェシカ様も信徒なのですか?」
「いいえ? 孤児の保護活動に関心がおありだそうで、年に数度ほど視察に来られるのです。お屋敷の畑が収穫期になると、馬車いっぱいの食材を寄付してくださってとても助かっていて」
現金ではなく必ず現物の寄付なのですよ、賢明な方でしょう、と苦笑した。
「お屋敷とこちらとのご縁は、最近のものなのですか」
またもや首を振った。
「以前までは、近隣のお屋敷の女性方が助力をしてくださっていたと聞いています。いろいろあって今はジェシカお嬢様だけですが」
いろいろ、と反芻すると、あらご存じないですか、と茶を啜った。
「前の施設長が、保護した子どもたちを売り飛ばしていたことが明るみになりましたの。とあるお屋敷と加担して。要は人身売買ですね、とんでもない話です。
 そんな施設に支援などできないと、ほとんどの奥様お嬢様方は手を引いたのです」

 大陸平定後に帝国が大陸全土に一方的に交付した『大陸法』では、人身売買は固く禁じられている。露見すれば、売る方も買う方も大抵は極刑に処される。
 ……こう言った言い方はよくないが、見返りにどういったものがあるにせよ、はっきりいって“まったく割に合わない”犯罪である。
「なぜジェシカ様は続けておられるのでしょう……」
 そんな醜聞のあった場所へ寄付を続けては、それまでお屋敷が築きあげてきた領民からの信頼も揺らいでしまう。一般的な貴族感覚を持つ者なら、他の寄付先を探しただろう。収支の明朗な大陸医療団あたりが人気である。
「私も尋ねてみたことがあります。我々にはありがたいことですが、それでお嬢様に迷惑がかかっていたら申し訳ないですもの。
 ですが『全員が手を引けば、それこそ居場所を失う子がでてしまう。諸悪を追い出したなら、むしろ支援は継続すべきだと思ったの』と仰って」
 ジェシカ様らしいといえば、らしい話であった。人を取りこぼさないとでも言おうか、およそ貴族らしからぬほど優しい方なのである。

 ふと思った。
「諸悪は無事追い出せたのですか」
「ええ。前施設長は神国の法に従って砂漠刑に処され、関わったお屋敷は秋のお国の女王陛下によって、家格が予定よりふたつほど下げられたそうです」
「? 下げられただけで済んだのですか。お家の断絶もされずに?」
 砂漠刑は夏のお国で一番重い罰である。四肢を縛るか切り落とし、身動きが取れない状態にして砂漠に打ち捨てる。その身は砂の上で干上がって死ぬか、野生動物に生きたまま食われるか、はたまた砂漠の盗賊に見つかり身ぐるみを剥がされ臓器を抜かれるか。
 なんにせよ、まともな死に方はできないと言われる夏のお国の拷問刑であった。それに比べ、共犯とされたお屋敷への罰はあまりにも軽い。死罪ですらない。

「もちろん、通常ならば当主は晒し首でお屋敷も没落させられていたでしょう。ですが、秋の女王陛下のもとに届いた告発書には、なんの隙もない罪の証拠がすべて揃っていたそうですから」
 戦後の混乱期に乗じて、秋の有力貴族を没落させるべく春のお国が裏で糸を引いていたわけだ。春のお国はそういった謀りごとが得意だ。だがやりすぎてしまうきらいがある。
 どのような犯罪であれ、証拠が完璧に揃うことなど稀だ。しかし完璧主義が行き過ぎる春の民の手にかかると、いっそ不自然なほど用意されてしまう。
 1等家ならば、そこから自然に見えるように提出する品を減らす指示もできるのだが、2~3等家あたりは我が強いので、これ見よがしに捏造した証拠をすべて突き付けてしまうのである。

「……女王陛下は冤罪とお考えになったのですね」
「戦時の功績を考慮したという建前で、家格を下げるだけでなんとか誤魔化したようです。告発をした側のお屋敷は1等家にされましたが、最寄りに駅舎すらつくられませんでした。領土も今は閑散としていると聞きます。
 女王陛下がどれほどご立腹だったかは、想像に難くないでしょう」
 戦後一番団結しなければならないときに、他国貴族に唆されて国内での内輪揉めなんて起こされてしまっては、一国の主として屈辱でしかない。
 だが裏で動いていたのが春貴族ならば唆した証拠など出るはずもないし、罪を着せられた屋敷を処罰しないわけにもいかず、潰しあいを仕掛けた愚かな自国貴族にも形ばかりであれ褒賞を与える必要があった。なおかつ、二度と馬鹿な真似はしないよう牽制もしなくてはならない。
 それをすべてうまく采配してのけたわけだ。英明な女傑と話には聞いていたが、秋の女王は噂通りのお人らしい。

 ふと思い至った。
 そういえば、ところどころ聞いた覚えのある話であった。嫌な予感がした。

「……今のお話は、もしや」
「レオナルドがお世話になっているお屋敷と、そこから西にあるお屋敷の話です」
口には出さなくても、この辺りに住む人間ならみんな知っています、とシャンティは軽く述べた。
「どうやら私は世間知らずなようです……。どなたもそのようなことは仰らなかったので……」
 この国の人間はなんでも正直すぎるくらい率直に話をする印象であったし、まさか意図的に伏せられた内情があるとは思わなかった。
「『なにも警戒する必要はない。そのうち君も知るだろう、彼らはこの上なく善良な隣人なのだ』とは、『大陸異人録』に書かれた話だったでしょうか。
 秋の民は確かにとてもおしゃべりですが、隣人を傷つける話題を好みません。たくさん話すのは、本当に話したくないことを話さずに済ませるためとも言えましょう」
 今の話が真実ならば、この施設について知らないと述べたお屋敷の皆さんは、ただ口を噤んだだけだったわけだ。どうりで皆さん不自然なほどに『知らない』と言い張るわけである。
 世話になっている主人が被った冤罪、それも悪意によって着せられた濡れ衣ならなおさら。私が思うよりずっと、この国の人間は義理堅かったようだ。

「シャンティも異人録を読んだことがおありだったのですね」
 先ほどシャンティが述べたのは、『大陸異人録』に綴られた『第三章 秋の民』の一節である。
「ええ。とはいえ私が渡されたのは複製本で、原本は触らせてももらえませんでした。『大陸聖典』と並ぶ名著と言っても過言ではないでしょう」
 他国民はどうか知らないが、春の民であれば『大陸異人録』はたいてい擦り切れるほど読み込んでいる。禁書になっているとか見つかれば回収されるだとか、そんな理屈は通用しない。なぜなら異人録は面白いからだ。
 もはや春の民の必読書と言っても過言ではないそれは、イリーディア様がもっとも好まれた本でもある。他の良家育ちの令嬢令息たちと同じく、他国語版もすべて入手し複製も作らせそれぞれ愛読されていた。
 私も影武者として学んでいた頃、頭取から与えられた複製本を楽しく拝読したものだ。そうやって春の民は、他国への憧れを糧にして勉学に励むのである。

 口にするか迷っている私を見て、なんでもどうぞ、とシャンティは発言を促した。
「……もし、見当違いな発言であれば」
彼女はカップ片手に目を丸くした。
「? なんでしょう?」
「神子宗教は私が思っていたよりずっと寛容だったのだと、とても驚いたのです。もっと厳格なものと思っておりまして」
「なぁぜ? 自国の王族まで屠ってしまったからですか?」
黙るほかなかった。その通りだったからだ。
 王族の一件もそうだが、私が学んだ大陸史上ではどの時代でも夏の民はその地を焦がす太陽のように義憤に燃え、そして欺瞞を心から軽蔑していた。
 率直さで言えば秋の民に負けるとも劣らないが、されどその苛烈さは穏やかな秋の民とは似ても似つかない。
 感情を過度に表すことを禁じられている私たち春の民は、だからこそ対極ともいえる夏の民の熱量やひたむきさに眩しさを覚え、憧れることをやめられないのだろう。

「……浮かばなかったと言えば嘘になります。されどそれを差し引いても、他国の祭に参加できるほど開けた宗教とは思っていなかったのです。印象が変わりました」
 先日の祭で見たこの施設の人間は、面や尻尾こそつけていなかったものの、あれこれと屋台を覗き込んで満喫しきっていたのだ。
「? ここが支部施設とはいえ、私どもも邪教の催しなら参加しませんよ? あの豊穣の祭は、神子宗教の祭事の名残ですから気兼ねなくお呼ばれしたのです」
「、さようで?? 初耳です、存じませんでした」
「おそらくジェシカ様もご存じないはずです。『大陸聖典』を読まれたことのない方には、知る術もありませんもの。
 神子宗教は神国だけのものではなく、かつては大陸全土で認められていたものでした。ただ残念なことに、神国の外ではその事実も徐々に忘れられてしまったようですね。
 他国の土着信仰も遡って紐解いてゆくと、神子宗教の一部が派生して残ったものとわかります」
そういったことを調べるのがまた楽しくて、とシャンティは満足そうに頷いた。

 彼女は後ろにある本棚へと手を伸ばし、背表紙が20センチほどもある臙脂色の本を引っ張り出してきた。慣れた手つきで捲ると、私へと差し出した。
 そこには確かに、豊穣の神と記されていた。それどころか春のお国で囁かれる風の精霊も、帝国北にあるお山も当たり前のように載っていた。そして使徒の頁を開いた。
 使徒にはそれぞれに男性名と女性名があり、そしてその名は国の垣根を越え実に多様だった。神子宗教が大陸全土のものであったなによりの証左だ、とシャンティは述べた。
「普段はゴハン信者さんばかりで、興味を持って遊びにきてくださった方がいるなんて嬉しいです。そちら簡易版になりますが差し上げます、是非お持ちになって」
 慌てて首を振った。このような恐ろしい本を安易に与えないでほしい。私が春の先人たちのように、突然夏のお国へ移住したらどうしてくれるのだ。
 彼女は私と簡易版の背表紙をしげしげ眺めた。
「……敬遠するほどの厚さでしょうか? 絵本版もありますよ、挿絵が愛らしくて当施設の子どもたちにも大人気、」
本棚から新たに引っ張り出されたそれを見て、変な声が出そうになった。
 表紙のそれはなんの絵ですか?? 人間でも動物でもないなにかだった。これ以上興味をくすぐらないでほしい。

「、大変、大変興味を惹かれますが、私は信徒にはなれませんので……」
「勧誘のつもりはなかったのですけれど。なにか事情でもおあり?」
「私にはすでに仰ぐ方がおります。新たになにか学んだとしても、他のものに敬愛を抱くことはおそらく叶わないでしょう」
 なにか信仰を? と問われ強く首を振る。私の主人は素晴らしい方であるが、れっきとした人間であり宗教ではない。
「ご安心を。無理強いは神子様の望まざるところです」

 そのうち施設のお祈りの時間になり、ジャスティン号とお暇すると述べた私を、シャンティはあまりにも巧みすぎる話術で引き留めた。
『――後悔なさいません? 今日は月に2度しかない、夏のお国のお料理が振舞われる日ですのに』
食べたことないでしょう……? 気になりません……? との不敵な笑みと、湧き上がる好奇心に負けた。
 先ほど子どもたちに出会った場に戻ると、床にはなにやら長い敷物が2枚離して敷かれており、その上に皿と料理が運ばれていた。
 習っていたので知ってはいたが、頭で知っているのと実物を見るのは印象がまったく違うなと思う。ためらいなく座ったシャンティに、私は敷物を挟んだ対面へと促され座した。
 夏のお国ではテーブルや椅子を使わない。床に座って食べるのである。
 
 虚空を見上げなにやらブツブツと呟くお祈りの時間も不思議だったが、遠い異国の料理は嗅いだことのない不思議な香りがした。
 ローストされた大きな鶏がまるごと数羽出てきたと思ったら、皆で取り分けて食べる形だったようで、人がやってきて器用に切り分けよそってくれた。
「……夏のお国のお料理をいただくのは初めてでして、食事の作法などあれば」
 大嘘である。うっかりひとりで食べ進めそうになってしまった。
 あのお国の食事は、他国の作法とは根本から違う。ナイフだフォークだという次元ではない。ものを食べる順番がすべて決まっているのだ。
 どの位置にある皿を何口食べて、その次は右にあるスープをスプーンで右回りに何度かき混ぜてから何口すすり、ここで対角にある皿を何口食べてから水を何口飲む、という具合で、一事が万事その調子である。
 私はもちろん、イリーディア様すら苦戦していらしたという。

 他国の作法をすべて学ばされる春貴族はもちろん、それを支える影武者たちもこの難解さにどれだけ泣かされたかしれなかった。
 まさかこの半生で実食する機会が訪れるとは思わず、されどあれほど苦労して覚えたものを知らぬふりをしなければならないなんて、なんとも情けない話であった。

「お作法まで気にしてくださるゴハン信者さんは初めてです」
「……この場で述べても説得力に欠けますが、私は食事目当てで訪れたわけではありません」
うそだぁ、と近くの子どもから声が上がり、クスクスと小さな笑い声に包まれた。誓って嘘ではないのだが、弁明するすべもなかった。
「では私の真似をして召し上がってください」
 目をつむり胸元で手を重ねると、なにかゴニョゴニョと小声で祈った。彼女のその姿をまねて、我々の近くに座っていた子どもたちも目をつむった。
 特に説明はなかったが、これは目の前の食事に感謝する時間である。
 シャンティは淀みなく食べ進めていった。複雑怪奇な夏のお国の食事も極めているようであった。
 子どもたちもしばらく真似していたが、喋っているうちにわからなくなったらしく、勝手気ままに食べだした。

 メインと思しき鶏は内臓が取り除かれ、代わりに中には何種類もの野菜が刻んで詰められ、肉汁が染みてしっとりしていた。基本の味付けは、塩と幾つかの香辛料をベースとしているようだ。
 やや薄味だが、これはこれで美味である。
 横目で見たところ、子どもたちどころか他の大人たちも作法は心許ない感じであった。
 ……では、シャンティはこの完璧な作法を誰から習ったのだろう。

 好奇心が首をもたげた。
「どうも私には難しく感じられるのですが、こういった作法はどちらで学ばれるのでしょう?」
「私は子どものころに、神国からいらした神官見習いの方から教わりました。あとは『大陸聖典』で地道に復習を」
「! こちらに夏のお国の方が?」
それほど驚かれます? と笑った。
「もちろん住んではおられませんよ。神官様と神官見習いは年に数度大陸を巡られます、その際に立ち寄られるのです。各国にある施設はそのときの宿の役割も兼ねておりまして、かつて神子様が留まった場所に点在しているのです」
 どうりで辺鄙な場所に建っているわけだ。利便性を考えたら市場の近くだとか、もう少し国境に近い場所につくるだろうと思っていたのだ。

 食べ終えると私はまた促され、シャンティの自室へと戻った。
 いつお暇すればよいのだろう、と渡された茶をすすりつつ思う。飲んだことのない茶だ。こちらも食事と同じく薄味だが、おそらく香りを主に楽しむものなのだろう。
「実は、順を覚えるのはそう難しいことではないのですよ。食事のお作法は、神国神殿で過ごす大神官様はもちろん、神官様や使徒の名を持つ者ならば当然できます。
 私が幼いころに、神国の方からこっそり教わった秘訣を明かしましょう」
聖典をお読みになれば、気づかれる方もいらっしゃるでしょうね、と茶目っ気たっぷりに目を細めた。

 シャンティは再び聖典の簡易版に手を伸ばすと、私に開いて見せた。
 初代神子である贄の娘は、干上がりかけたオアシスを守るため大陸全土を巡った。その行程がそれは事細かく記されていた。
 脳を、とんでもない速さで理解の風が駆け抜けるのを感じた。
 ――4つの皿は国で、スープはオアシスか。
「あれは初代神子が大陸を巡ったときの道程だったのですか……」
したり顔で頷いたシャンティに、私は何度も頷いた。
 どうりで覚えるのが難しかったわけである。
 春の民は『大陸聖典』を頑として読まないので、あの規則性のあるようでまるでない、細かすぎる順番を丸暗記するしかない。
 だが夏の民は違う。彼らは諳んじられるほど読み込んでいる。そしてこのシャンティも。初代神子の話さえ思い返せば、迷うことなく食べ進められるわけだ。
 あの日々の答え合わせをしているような気分だった。

 恐ろしいことに気づいてしまった。
 あのころ感じた疑問はすべて、『大陸聖典』を読めば解決する……。

 興味がわいたでしょう? と確信を持った声で言われ、私ももう首を振ることはできなかった。
「さっきは断られてしまいましたが、興味深いとの言葉がお世辞の類でなかったのなら、やはりお持ちになってお帰りください。
 聖典は大陸最古の書物であり、先人たちの喜びはもちろん悩みや憂い、そしてその解決に至るまでが詰まっています。判例集のようなもの、とでも申しましょうか。いつかお困り事があったときに役立つでしょう」
 これが勧誘でなければなんだというのか。
「――というのは建前で、単純に読み物として面白いのでお薦めです」
異人録がお好きなら間違いなく聖典も楽しんでいただけるかと、とシャンティは笑った。

 冷めちゃったかしら、と言いつつ茶を注ぎ足してくれた。
「そういえば、しばらくこちらには来られそうにないとジェシカ様からお手紙をいただきました。体調でも崩されたのですか? それとも縁談でも?」
どちらでもありません、と首を振った。
「実は、お祭の際にいくつか事件がありまして、責任者として対応をしておられるのです」
 花屋のアルバイトが強盗と鉢合わせ腹を刺された事件と、飲食街にある店の主が自宅で襲われ足を折られた事件。そして仕入れに出ていた花屋の店主が春との国境で馬車ごと橋から転落し、今も行方不明となっている。
 前述の2件は祭当日の夕方以降のことで、依然として犯人は捕まっておらず、後述の1件は祭の翌日のことで事件か事故かも不明。
 日が重なっただけでおそらく関連性はない、とのことで、それぞれ別件として自警団が今なお調査中である。

 すでに噂として広まっている内容を伝えると、意外なことだったのか目を丸くした。
「そうでしたか……。この施設で過ごしているものですから、我々はそういった市井の情報に疎いのです。この辺りは治安もいい方なのに珍しいですね。
 我々は例年通り楽しく過ごしましたが、影でそんなことがあったのですね……」
ジェシカ様はお優しい方ですもの、怪我人が出たとあっては気を落とされていらっしゃるのでは? と気づかわしげな顔をした。
「祭の責任者として、自警団に調査協力をしておられます。お忙しいようで、しばらくは私もお見掛けしておりません。落ち込んでおられるとは聞き及んでおります」
なにか気晴らしになるようなお手紙でも書こうかしら……、とシャンティは悩むそぶりを見せた。

 そろそろお暇をと立ち上がると、ではお見送りを、と彼女も腰を上げた。
 来た道を同じ道を歩く。お屋敷とは違い、抜け道や屋根裏、忍ぶ場所すら見当たらなかった。
 ふと思いついた。
「……後学のために伺いたいのですが」
これまでと同じように、シャンティは首を傾げ「なんでしょう?」と述べた。
「神子宗教では、人に裏切られた場合はどうすべきと説うているのですか。やはり許すよう言われるのでしょうか」

 幸か不幸か、アリアナ嬢は生き残ってしまった。
 休暇をとった大陸医療団員が数人、たまたま祭に遊びに来ていたのである。『意識のない女性が血を流して倒れている』と耳にするなり彼らは持っていた串を片手に現場に走り、少ない手荷物を駆使しての救命活動やら医療団でいちばん近い病院施設への連絡やらを行い、手本のような連携で失われかけていた命を引きずり戻したらしい。
 自警団が到着した頃には、売り物の花瓶に食べかけの串が刺さったままになっていたそうだ。この話を、私はギル先輩から聞いた。『医療団てすげぇんだなー!』との暢気な感想と共に。
 その一報に、扱いに困ると同時にホッとしている自分がいた。

「聖典では、人はこうすべきという書き方はされません。神子様も仰らないかと」
「さようで?」
ええ、と頷いた。
「感情は人生に生涯寄り添うものとされています。神も神子様も、我々の感情をなにひとつ禁じていません。喜びはもちろん、怒りや悲しみすら」
「ではどうするのですか」
「考えるのです。己にとっての最善がなにかを。納得ゆくまで考え続け、決断を下すのです。時には周囲と相談し、意見を聞き、あとは考え抜くのです」
 なんだそれは。少しがっかりした。
「神子は答えを教えてくださらないのですね」
やや拗ねた私に、そもそも答えなんてあるのでしょうか、とシャンティは呟いた。
「裏切りというのは、そもそも定義が難しいでしょう?
 自分が期待していただけだったのか、相手が騙すつもりでいたのか。はじめから騙すつもりでいたのか、それとも途中からか。はたまた騙すつもりでいたのに、気が変わってやめたくなることもあったかもしれません。
 それらを裏切りの言葉ひとつに当てはめることこそ無謀ではないでしょうか」
それも聖典の教えですかと問うと、私個人の見解ですと微笑んだ。

「裏切りというからには、親しく過ごした時間もあったということでしょう。そのあとなにがあったにせよ、楽しく過ごした事実がなかったことになるわけでもありません。
 感謝できる部分は感謝して、怒る部分は大いに怒ればよろしいのではないでしょうか?」
 なんだか言いくるめられた心地がする。なのに妙にスッキリしているから困る。
 話せば楽になるなんて言葉は、てっきりただの気休めかまやかしだと思っていたが、あながち嘘ではなかったのかもしれない。

 シャンティは厩からジャスティン号を連れてきてくれた子に礼を述べると、私に手綱を渡し裏口へと案内した。来た時に出会った彼らは正門から出るから、と述べた。
 彼女はおもむろに羽織を脱いで手に持ち、翻した。
「せっかくですから、お見送りも兼ねて披露しましょう」
 言うなり、耳にしたことのない旋律を唄いだした。
 優雅に踊りだした舞も私の知らぬもので、澄み渡った空の下、建物の白壁とカラフルに実った野菜畑を背景に、その手に持った白い羽織が生き物のようにヒラリと広がった。
 かつて屋根裏から眺めた春の一室も絢爛で美しかったが、あの頃に見た景色より、世界はずっと自由で広大だった。

 これが神国神子の描く大陸のあるべき姿と言うのなら、この世にはなんの悩みもしがらみもないのかもしれなかった。

***

 お屋敷へ戻るなり、厩へジャスティン号を返した。使用人寮へと戻る道すがら、お屋敷の正門の方角から不穏なザワめきが聞こえた。
 不用心なことだが、特になにを考えるでもなく私は正門へと足を向けた。

 ずいぶんと大所帯だ。只事じゃない。
 物々しい夜色の羽織を纏った団体が、お屋敷の正門を占拠していた。

 味もそっけもない褪せた髪をした、団体の頭目と思しき男と目があった。
 言葉もない私に、小さく右の口角を上げるのが見えた。されど何事もなかったかのように真顔になると、正門をさらりと通り抜け、それと同時に音を立てるように屋敷使用人たちが後ずさりする音が聞こえた。
 低く強く、声が張られた。

「――我ら大陸自警団は、皇帝陛下の正使である。早急に、当主を出してもらおうか」

 帝国の旦那様が、なぜここに。

続.

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