春風に雷鳴
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布団こね職人の朝は早い──。
毎朝食事を出すはずの、二足歩行のアイツの目覚めが遅いからだ。
くるまっている布団をこねやったくらいで、起きることは稀だ。耳をつつくか甘噛みすると、悲鳴を上げてようやく起き出す。
──よし、見本を見せてやろう。そこで待っていろ。
ベッドの端から顔を突っ込む、無防備に眠りこける自分の顔が見えた。耳を狙い口を開ける。
……え、ちょっとそれ、やめっ。
「……~~ぁだッ!!!!」
飛び起きた瞬間には、布団回りから猫たちが走り去る盛大な足音と、幾本もの尻尾が見えた。それを呆然と見送った。
毎朝毎朝、この起こし方はやめてもらえないだろうか。
「……。あなたたちが思ってるより痛いんだからな……」
恨み言を述べるも、犯人はとうに逃げた後だ。
ベッドから降りると、すでに彼らの運動会が始まっており催促の大合唱まで始まっていた。まだ5時半である。いくら自分達が夜行性だからって、人間はそうじゃないのだから勘弁してほしい。
着替えるより先にやらないと怒るので、ヨレた寝巻きと寝癖もそのままに、絶えず催促しながら足元をついて回る彼らの間を縫って歩いた。
眠い、顔だけ洗わせて……となんとか伝えるが、それすら強い抗議によりいつも通り阻止された。すでにヘトヘトになりながら、餌を入れている瓶を諸手に取った。
階段を降り一階玄関へと向かう。この時点でついてくる猫は増えている。
可哀想なほど子猫に噛みつかれ、すっかりボロボロになったサンダルに足を突っ込む。玄関の戸を開いた途端に触れる、春の朝の外気の冷たさが顔に染みた。
猫用に誂えた庭の真ん中を突っ切り、奥の柵まで辿り着くと、振り向いてコンクリートで作られた長方形の台の横に立ち、中腰で瓶の上下をひっくり返した。
ワッ! と見る間に矢のような速度で飛び付いていく。肉食動物の瞬発力にはいつも惚れ惚れした。
あとは少しずつ、コンクリートの上に餌を撒きながら自宅へと歩を進め、瓶を空にするだけだ。
餌場はもっと高い位置に作れば良かった、と内心思う。
朝から中腰歩行はまぁまぁツライ。僕はお爺さんになったとき一体どうするつもりなんだろう、と毎朝戦々恐々としていた。
家に戻ると、残っていた猫たちが急いた声を上げた。彼らはなにかしらの病気がある猫で、それぞれ専用食なのである。
思えば自分は犬好きなのに、飼うのはいつも猫だった。
子供の頃も大学時代も開業したときも、そしてすべてから逃げ出したときも、僕の傍らにはいつも猫がいた。いまなお、何故こうもたくさんの猫と暮らしているかというと、猫が猫を呼んで居着いてしまったからだ。
自分の意思で飼ったのは、学生時代に拾った一匹だけだった。
いまもうちにいる、三毛のオス猫である。
一般的に、三毛といえばメスだ。オスはごくごく稀で、さる筋では高額で取引もされるという。
ただこの彼は、パッと見は白と茶の二色の猫に見える。黒い柄はモコモコの下腹の毛の真ん中辺りに少しだけあり、拾った僕以外にはそうそう見せないので誰も気づかなかった。
気位の高い彼は、人前で腹を見せるような漢ではなかったのだ。
そのおかげで誰にもそうと知られることはなく、ただの家猫として過ごしてこれたのである。
最近の彼は僕より朝寝坊であった。大量の食事をやり終え、病気の彼らの食事もやり終えて部屋に戻ると、ようやく目を覚ましてベッドのわきから降りてきた。
いつも通りふやかした食事を皿に盛って床に置きやると、彼もいつも通り数度匂いをかいでから口をつけ始めた。
誰にも奪われる心配がないとはいえ、トロトロモタモタとした速度だ。食べるのもずいぶん下手くそになった。
なにせ年だ。18歳にもなる。
彼を見ていると老人に向ける慈しみに似た気持ちと、長くを共にした戦友、という気持ちがいつもまぜこぜになる。
僕の半生の転換期には、だいたい彼がいた。
獣医となるべく必死に勉強していたときも、満を持して開業したときも、気まぐれに買ったクジが当たったときも、病院の設備をいいものに買い換えられる、と喜んだときもそばにいた。少しだけいい猫缶を買って、僕も少しだけいい肉を買ってきて焼いて、ささやかなお祝いをした。
そのあと親友に多額の借金の肩代わりを持ちかけられたときも、フラれた彼女から「誤解だったの」と連絡が来たときも、堅実に生きよと育ててくれた両親から「豪邸がほしい」と言われたときも、仲の良かった弟に「いつもなんで兄貴ばっかり」と自宅階段から落とされそうになったときも、だ。
長く親しく過ごしていた人たちが、別人のようになってしまった。
まるで自分だけが一人、似て非なる世界に飛ばされてしまったように思えて、日々がたまらなく怖くなった。
もう二度と元には戻らないであろう人間関係と、その現実を受け止めきれなくて、もうなにもかも捨てて行こうと決めたときも傍らには彼がいた。
その夜、通ってくれていた犬猫の病気や症状に合わせたお薦めの通院先のリストを広げ、次の病院へ見せる用の、軽い注意事項を手紙に書いた。
明日ポストに投函して、そのままどこかへ行こう。
それで。
それで、僕はこれからどうするんだ……?
獣医は子供の頃からの夢だった。
動物が好きだったから、世界中は無理だが近所に住む犬や猫なら、少しでもその痛みを和らげ、助けてあげられるなら。
いつか、穏やかに眠りにつくその日まで手伝えたなら。
そしてその夢は叶った。
やっと始められた病院は、僕にとってようやく手に入れた城だった。日々勉強で大変だったが、でもみんないつも、ありがとうと言って帰ってくれた。
こんな日々を、僕は自分の寿命まで続けたいと思った。
なのに、自らそれを手放す。
情けなくて悔しくて涙が出た。
任せてと言ったのに、これから一緒に頑張ろうと声を掛けたのに。なにが一緒にだ、僕が一番最初に逃げ出すんじゃないか。
また診てあげられなくてごめんなさい。
ごめんなさい……。
泣きだした僕に、彼は懸命になにかを訴えながら、なかば体当たりのような強い力で何度も何度もぐるぐるとその身を寄せ付けてきた。
「……。なにをいってるかわからないよ……」
まだ人類に猫語は難しいから……となんとか返事をすると、ンニャ……と返事をくれたがやっぱりわからなかった。
やわらかな彼の毛は、僕の涙をよく吸った。一時期はそのどこかしらが毎日しっとりしていた。
彼は気高い猫だから、弱った僕ごときに体の一部をペショペショにされたくらいではビクともしなかった。ハチャメチャに怒るのは、雷が鳴ってビビったところをうっかり見られてしまったときくらいだ。
視界では緩やかに、だが懸命にもちゃもちゃと食べ進める彼の姿があった。
あと一息となっていた。無理はしてほしくないが、食べきってほしいのが本音だ。生き物は食べないと戦えない。
彼は、皿に残ったものまで舐めた。幸いなことに。
「今日は調子いいね。完食だ」
誇らしげに上げたその顔には、食べやすくふやかしていた餌の欠片が斑についていた。絞ったタオルで軽く拭ってやる。毎食そうする。
プライドが許さなかったのか最初は大層いやがったが、いまや素直に目をつむり、なされるがままで、なんなら喉まで鳴らしてくる。
体は痩せぎすになったが、性格はずいぶん丸くなった。
それは、彼の終末が近いことを意味していた。
猫は賢い。そしてこの彼もまた賢いので、すべてがわかっているような顔をして、どんどんその老いを受け入れている。
まだ受け入れられていないのは、僕だけだった。恐ろしいことだった。
……いくら金があったって、寿命ばかりはどうにもならない。
こんなに付き合いの長い彼を、いつか来るその日まで黙ってみていることしかできないのだから。
越してきてすぐ、彼が怪我をした猫を見つけてきた最初のとき、なんて男気のあるやつなんだと思った。兄貴肌な性格だとは思っていたが、こんなに面倒見がいいなんて、と。
だが今になって思うのだ。
彼が真に心配していたのは、果たして本当に、怪我をした見知らぬ猫だったのだろうか?
その彼をはじめ、連れてきた他の猫たちも次々と弱った猫を見つけて連れて来た。一人でこなす手当てや世話は目が回るほど大変だったが、身の回りの命が回復すると僕はいつもほっとした。
病院をやっていたころの、あの忙しくもやりがいに満ちた日々に似ていたからだ。
……悲しむ隙を与えないようにしているのかもしれないな、と思ったのはいつだったろうか。
これだけいれば日々の世話だけで手一杯で、いつか彼との別れが来ても、不器用な僕にはゆっくりと悲しむ暇さえないだろう。
ふいに子猫たちがおもちゃを持ってやってきた。ゼェゼェ云いながらこなすものの、キツい。
首元の汗をぬぐっていると、彼が椅子の上から、まるで慈しむかのような瞳で息の上がった僕を見ていた。
四つん這いになったままなんとか寄っていき、その顔を見上げた。
「……もしかして、僕のことも弟ぶんだと思ってたりする?」
ニャン、と静かな返事をした。
その痩せた体を抱き上げ、出来る限り優しく抱きしめた。
腕にある少し湿度のある体から、穏やかな心音がした。この先も聴いていたい音だった。
ふと雷鳴のような轟きが響き、目を見開いた彼は僕を足蹴にして逃げ出した。
「ごめん、いまの僕の腹……」
みなまで言う前に、めちゃくちゃ怒った声が戻ってきた。
……そういや、自分の朝ごはんがまだだったな。
Fin.
【 猫の園(短話連作)】
・仙境に猫 (前の話)
・春風に雷鳴 (現在のページ)
・黄昏に老猫 (次の話)
・日常に花栞 (同上)
・青嵐に氷菓 (同上)