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4話 元影武者、花を買うこと

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Dominion

前の話 ⇒ 1話 影武者、職を失うこと

    ⇒ 1.9話 * 夜行列車にて *

    ⇒ 2話 元影武者、面接をうけること

    3話 元影武者、お使いに行くこと

***元影武者、花を買うこと***

 お屋敷に雇い入れられ、早半月が経った。
 担当する小屋にいる馬たちの名、それぞれの性格や食べ物の好み、あとお使いの品名から実物も思い浮かぶようになってきた。
 最初は気になった家畜の強い匂いにも徐々に慣れた。人間の順応性とは偉大なものである。

「レオ、呼ばれてる」
馬小屋の外からルカ先輩が手招きしていた。促されるまま小屋を後にすると、先輩の影から藤色の裾が秋風にふわりと靡くのが見え、反射的に頭を下げた。
 お会いするのは面接の日以来である。
「お仕事は慣れた?」
穏やかな笑顔がそこにあった。
「はい、お陰様で。御用でしたらなんなりと」
「呼んでるのはあっちだ」
先輩は少し先にある農具小屋を指さした。
 挨拶もそこそこにおふたりと別れ、すっかり枯れた雑草を踏み分ける。来た道を軽く振り返ると、馬小屋からは完全に死角であった。
 小屋の影には無の表情をしたリック氏が壁にもたれ佇んでおり、私に気づくと軽く手を上げた。
「仕事中に悪いな」
「とんでもないです、お疲れ様です」
 これ、と小袋を渡された。ざらりとした麻の感触越しに、金属のこすれる音がする。会釈し中を確認すると、ジャラジャラと硬貨が入っており鈍く光っていた。
「お使いのお代は、お店からお屋敷へ直接請求されると伺っております」
「そうじゃない。お前の給料の半月ぶんだ」
あまり手持ちがないらしいって聞いた、と続き、忘れかけていた記憶がありありと蘇り私は顔を覆いそうになった。

 厨房にお使いの品を持って行った際、一度盛大に腹を鳴らしてしまったのである。

 自分の腹から、ああも切なげな音が鳴るとは思っておらず動揺した。
 適当に誤魔化したものの「子供が遠慮するんじゃない」と、それ以来行くたびになにかしらの食事のおこぼれに与るようになってしまったのである。
「それはどなたから……」
「どなたもなにも皆もう知ってる。俺はお袋に聞いた」
厨房勤務のひとりだと続き、思わず空を仰ぐと、群れからはぐれた雲がひとつ所在なさげに流れていた。
「お気遣い、痛み入ります……」
「気にするな。慣れてる」
 それはそれでどうなのか。「ギルなんか最初『日払いにしてくれ』って泣きついてきたしな」とリック氏は遠い目をした。
 ギルというのは市場で馬を貸してくれた男である。ルカ先輩と同じく、馬小屋担当の先輩使用人であった。細やかなルカ先輩と違い、ギル先輩は雑……非常に大らかな方である。私が入ってからのこの二週間の間にも、気づいたらいないということが何度もあった。
『あいつが誰かと喋り始めたら迷わず置いて帰れ、キリがないから』
とは、ルカ先輩の教えである。

「なんでしょう?」
腕を組み、リック氏はひたりと私を見下ろしていた。
「……回りくどいのは性に合わん、ハッキリ言っておく。
 俺は、新入りがお屋敷に一番近い小屋で働くのは正直どうかと思ってる。旦那様やお嬢様のご意向だから仕方ないが、下働きとはいえお前は帝国軍人の屋敷から来た人間だ。現時点では信用ならん」
なにかよくない腹づもりがあるなら、その金を持って出ていけ、と続き、その大真面目な顔を見て私は自分の目が丸くなるのを感じた。
 あまりにも真正直すぎる。裏でもあるのか。
「だいたい、なんで他国を希望した? 帝国は仮にも大陸の都だろう」
「寒さが少々苦手でして」
嘘はついていない。顎で続きを促された。
「あと、こちらは食事が美味しいとも伺っておりましたので」
……飯か。飯ならまぁ……、とリック氏は悩むそぶりを見せた。
 なぜみんなして食事を理由に挙げると納得するのか。警戒心があるのかないのかまるでわからない。
「お屋敷の、ご都合のよいようにしていただければと思っております。お仕事にも慣れてきたところで残念ですが、配置換えのご命令があれば従います」
その黒い目はこちらの真意を窺っているようだった。
「……気を悪くするなよと言うつもりだったが、気にしてなさそうだな」
「? はい、ない腹を探られても痛みようがありません」
「さっぱりした野郎だな」
ありがたいけどな、と小さく溜め息を吐かれた。リック氏も損な役回りである。

 その肩から下げていた大きな鞄から、ひらりと白い封筒を取り出した。見覚えのある字だった。
「帝国からお前宛だ。アッシュってやつから」
「ありがとうございます」
差し出され頭を下げた。リック氏にではない。手紙にである。
「向こうの友人か?」
「お世話になった先輩なのです。無事採用された旨を報告したお返事かと」
 大嘘である。
 アッシュというのは、帝国の旦那様の偽名の一つであった。帝国の旦那様は元帝国軍に属した方なので、どの国の検閲にも掛からないことになっているのだが、足の引っ張り合いはどこの組織にもあるらしく、念のため幾つか偽名を使っておられるのである。

「この流れで悪いが、先に中身を見せてもらいたい」
 本当に中を気にしているなら、読み捨てるなりなんなりしているはずであった。反応を確認するためだろう。
「私はただの下働きでしたので、お調べになるほどの内容はないかと……」
「なにか都合でも悪いか?」
「いえ、どうぞご確認ください。疑いが晴れるとよいのですが」
 渡されたばかりの手紙を差し出すと、リック氏は大袈裟な音を立てて封を開けた。私が動揺しないのを軽く視認すると、その視線を紙上へと落とし黙読し始めた。
 実際、この手の疑念もさほど間違っていない。スパイや暗殺者を使用人として紛れ込ませるのは、我々の界隈では常套手段である。
 リック氏はしばらく、読み終わった手紙を裏返したり陽の光に透かしたりしていたが、悪かったなとあっさり返してきた。そう言いつつも、その顔に詫びの色はまるでなかった。『もし何かあればお前を真っ先に疑う』と釘を刺しに来ただけなのだろう。
「お前のことは、旦那様もジェシカお嬢様も気に入られてる。期待を裏切ることのないようにな」
「精進いたします。しかし、まさか疑われるとは思ってもみませんでした」
なんだか格好いいものですね、と笑って頭を掻いてみせると、「笑いごとじゃないだろうが」と呆れた声を出された。

「あとそうだ。今日、たぶん飲みに誘われると思うがあまり奢られるなよ」
ここの使用人は、だいたい月2くらいで飲みに出る、と続いた。小屋によって違うが、私の担当してる馬小屋では給料日当日と次の給料日との間だそうである。
「あのふたりは仕送りしてるから。奢るほど余裕はないだろう」
お前はどうも大食漢らしいし、と続き脱力する。このお屋敷では個人情報も何もありはしないようだ。
「話はそれだけだ。戻っていい」
 頭を下げ、小屋への帰路につく。やや悩んだが、手紙も小袋もズボンのポケットへとしまった。麻袋に入っているだけマシだが、チャリチャリと耳に煩わしい思いをしながら馬小屋へと戻ると、ジェシカ様と先輩方が小屋の脇でのどかに談笑していた。

 どこから持ってきたのか大きなパラソルが広げられ、その下には小綺麗な布が敷かれ、ジェシカ様が座っていらした。テーブルがわりなのか大きな切り株にはティーセットが乗っており、それを囲うようにして先輩方も地面に腰を下ろしていた。こちらに気が付くと、軽く手を振られた。
「おかえり。厳しいこと言われなかった?」
「これからも励むよう、激励いただきました。皆様はお茶会ですか」
「そうなの。レオナルドもちょっと休憩しましょ、お話ししたいわ」
 お隣へと当たり前のように招かれた。戸惑いの声を上げる前に、はいよ! とギル先輩に紅茶の入ったカップを渡され、先輩方に倣い地面に尻を下ろした。
 地面に直接座るなど、使用人が雇い主と共に休憩するなど。困惑の言葉が次々と脳内に浮かび飛び交う。

「そういえば人助けしたって聞いたわ? えらかったわねレオナルド」
ご婦人の荷物を取り戻してあげたんでしょう? とジェシカ様は小首を傾げた。
「お褒めに与り光栄です」
「お嬢様ー! レオは俺が連れてた馬に乗って犯人捕まえたんですよ!」
「それでサボりがチャラになるわけじゃないけどな」
 楽しそうにニコニコしつつも、ジェシカ様はワンピースの裾を整えたり袖口のレースを摘まんだりなさっていた。
「――で、今日は誰になんの御用です? リックには内緒なんですか」
「内緒ってほどじゃないわ? ちょっと頼みごとをしてたから」
 身に覚えがなかった。目があったルカ先輩も、表情を見るにおそらくシロである。我々が黙ってギル先輩を見やると当人は暢気に紅茶を啜っており、こちらに気づくと目を瞬かせた。
「ん? え? なになに?」
「『なになに?』じゃないだろ、なに頼まれたんだ?」
「……? ……っそっかそうだった! 一部譲ってもらえたんですよ!」
 後ろ手に背中へ手をやると、先輩は上着の下から紙束を引っ張り出した。
「! あったの!? ありがとううれしい!」
 少しふざけて、お納めくださいと恭しく差し出されたそれを、ジェシカ様は子供のように喜んで受け取った。頬を紅潮させ、後で皆にも見せてあげるからねと掲げられたそれは、先日市場で配られたと思しき号外のチラシであった。
 ご機嫌で目を通した始めたジェシカ様を、我々は黙って見守った。

「……。あれなんの記事なんだ?」
「春の第一王太子殿下の、ご結婚のなんちゃらかんちゃら」
「あー……。好きだよなジェシカ様、そういうの」
 他国の王族のニュースと言えば政治がらみのようで聞こえがいいが、要はゴシップである。速読なのか早々に読み終わったようで、満足げにお顔を上げ感嘆の溜め息を漏らした。
「はぁ~~っ楽しみ……! ありがとうね!」
「またいつでも言いつけてください!」
おふたりの声に反し、ルカ先輩の目と声は冷めていた。
「ようやくですか。どなたに決まったんです?」
「? まだよ? 候補が絞られただけだもの」
「状況なにも変わってないじゃないですか……」
そんなことないわ、もう片手で足りる人数になってるんだから、とジェシカ様は号外記事についた折れ跡を念入りに伸ばし、手でプレスした。

 ――ついに候補が絞れた。最有力はどこそこの令嬢か。

 10年以上前から、人数の増減はあれずっとその調子である。
 なにせ春のお国の第一王太子殿下は、私の元主人イリーディア様にそのお心を奪われていたのだから。
 諸々の事情でイリーディア様が辞退されてもお気持ちは変わらず、数年前お嬢様がご結婚された折には、
『結婚おめでとう、と祝福する言葉を贈るべきなのはわかっている。(~中略~)しかし、もしそちらでの生活が少しでもつらければ、なにも心配はいらないのでいつでもこの国に戻ってきてほしい(云々)』
……と、御自らしたためたブ厚い手紙が送られてきた。
 手紙は読めないまでも、その厚みに完全に引いた顔をしていた帝国の旦那様は、
「……壮大な歴史小説の上下巻でも届いたんですか?」
と呟き、イリーディア様は変わらぬ微笑みを讃えたまま、
「お祝いの言葉を頂戴いたしました」
と仰った。

 もともと、国母の席にイリーディア様は花弁のひとひらも関心がなかった。
 上位貴族に生まれた子女の一人として、あくまで“こなさねばならぬ仕事の一つ”として臨んでいただけであった。
 ――他によい候補者がいなければ、我が国の未来のためお前が座り、命尽きるまでその責務をまっとうしなさい。よりよい者がいれば辞退なさい。
 国の今後を第一に考えよ、というのが大旦那様のご意向だったのだ。

 ここで通常の貴族令嬢なら、一族の名誉と繁栄のため、殿下に取り入り次期国母の座を取り付けただろうが、お嬢様は貴族にしては欲がなさすぎた。
 なにせ富や権力に興味がおありでない。華やかな宝飾品や特権階級のみが得られるあらゆる優遇より、誰もいない静かな空間を好まれ、言葉遊びで切磋琢磨しあう社交場より、自室で手紙や本を読んで過ごす穏やかな日々を愛された。
 そんな物静かなお嬢様が、あらゆる花の咲き乱れる絢爛な春のお国より、帝国の静謐な雪景色を好まれるのもある意味必然だったのだろう。
 お嬢様にとって、王位継承者の婚約者の席は生涯自由になれぬことが確約された楔でしかなかったのだ。向いていないというご自覚もあればなおさら、候補者のひとりとして名を連ね、注目を集めるのは気が重かったに違いない。
 その内気さが好まれ、まさかああも長く殿下に乞われることになるとは、それこそ想像もしていらっしゃらなかったのだろうが。

「楽しみね~! どなたがなられるかしら」
「こんなに長いこと決まらないものを、いつまでも楽しみにしていられるジェシカ様はすごいですよ」
「なぁに、意地悪な言い方して」
ジェシカ様は眉をひそめたが、ルカ先輩はどこ吹く風であった。
 そもそも先輩の言い種ももっともである。10年以上決まっていないのだ。決める気がないと思われても仕方のない年月だった。
「うちは国境にある屋敷なんだもの、向こうのことも勉強しておくべきでしょう?」
「もっとマシな情報源だってあるでしょうに。それゴシップ紙じゃないですか」
「いいじゃない、もー。私の数少ない楽しみなんだからー」
 初対面の折にわずかに垣間見えた貴族らしさすら、いまのジェシカ様からはすっかり抜け落ちていた。
「ね! もし決まったら、ギルまたもらってきてくれる? 馴れ初めが読みたいの」
「お安い御用ですよ! 任せてください」
その返答に目を細め頷くと、ジェシカ様は改めて号外に目を落とした。黒い瞳は希望でキラキラと輝いていた。
 ジェシカ様には隣国の王族の結婚話さえ、のどかな色恋話の一つになってしまうのか。実際は互いの足を引っ張り合うだけの、権力争いと陰謀が渦巻くドロへドロのような争いでしかないのだが、ご様子から察するにそんなことは想像もしていないのかもしれない。

「ねぇ皆はどうなると思う? 私はね、どっちかだと思うの」
この方かこの方、と号外記事を広げ指し示した。
 ギル先輩がしげしげと覗き込んだ。
「んー、こっちのお姫様ですかね! 目しかわかんねぇけど美人そうだし気も強そう、上に立つ人はやっぱ気持ちが強くないと」
 いや、その方は駄目です、と内心強く首を振る。
 イリーディア様を始め、他の候補者たちに幾度となく暗殺者を放つような、とんでもなく荒っぽい屋敷が擁立しているご令嬢である。当人も気が強いどころの話ではない。
 とはいえ、そのような候補は決して珍しくない。穏やかに微笑みながらも水面下では全員が命を張り、影武者及び本人が儚く散っているのである。
「戦後に1等家にされたお屋敷なのだっけ? よほど功績があったのかしら? すごい努力よね」
 上位貴族の不正をでっち上げ引きずり落とし、その後釜に収まることを果たして努力と呼んでよいものでしょうか。
 口を挟みたくなるのを我慢し、代わりに紅茶を飲み込んだ。喉を潤す熱さと鼻腔をくすぐる香りに、このときばかりは救われた心地がした。

「順当に行けば、シャルロッテ様でしょう」
どこか確信を持ったルカ先輩の口調に、私は首を捻った。
「なぜそう思われるのですか」
「確か最初に候補として名前の挙がった方だろ? 王族かなんかって」
「王太子殿下のハトコね」
「それです。遠縁とはいえ王族なら安心じゃないですか」
 感心なさげなわりに、なかなか見る目がおありだ。春のお国でも、シャルロッテ様は常に最有力候補であった。
「レオはー? どのお姫様が好み?」
「お前いつか不敬罪でしょっぴかれるぞ」
見る? とジェシカ様に記事を渡され、見知った名の連なりを追っていく。知った名が幾人もいなくなっていた。きっと知らぬ間に辞退していたのだろう。

 イリーディア様がご結婚なさってから、私はその手の情報をあまり耳に入れないようにしていた。
 理由は単純に、悔しかったからである。
 どの候補が選ばれたとて当家のイリーディア様に敵うものか、という強い想いがあった。なにせお嬢様は、殿下に乞われた方なのだ。誰にも引けなど取らなかったはずだ。

 大まかに書かれたそれぞれの紹介欄をさらい、ひとつ頷いた。
「この中でしたら、やはりシャルロッテ様かと」
「お! レオはなんで??」
「政治的なことはわかりかねますが、明るく聡明な方だそうですから」
 少し贔屓目に見てしまっているのかもしれない。シャルロッテ様は、我が元主人イリーディア様の数少ないご友人の一人であった。
 本物のシャルロッテ様とお会いする機会は私には一度もなかったのだが、なにせ候補を降りる前のお嬢様に『殿下のお隣はシャルロッテ様こそ相応しい』と言わしめたお方である。家柄教養はもちろん、お人柄のほうも申し分ないだろう。
 明るく闊達なシャルロッテ様は人見知りをなさらぬ方で、内気なイリーディア様のことをずいぶん気にかけてくださり、お嬢様も信頼を寄せていたのだと頭取から聞いていた。

 ただ残念ながら、ご本人はとうに儚くなられているのだが。
 シャルロッテ様は、齢7つの頃に何者かに暗殺されてしまっているのである。それ自体は春のお国ではよくあることだが、遠縁とはいえ王族に縁ある子女がそのような凄惨な目に遭うなどとんでもないことであった。
 当時は終戦直後だったこともあり、他国からの刺客の可能性も捨てきれず、新たな戦乱の火種となることを危惧した当主は苦渋の決断を下した。
 愛娘シャルロッテの暗殺死を秘密裏に葬り、代わりに影武者を据えたのである。
 遺体は葬儀も行われず荼毘に付され、その悲劇を知っているのはシャルロッテ様のご家族と、家族ぐるみで親交のあった大旦那様とイリーディア様、そしてまだ見ぬ犯人のみである。
 たらればなぞ言っても仕方ないが、もしもシャルロッテ様がご存命であったなら、イリーディア様が十数年にも渡り口を噤み、お部屋に籠られることもなかっただろう。

 記事に載せられた隠し撮りと思しき写真を眺めつつ、私は溜め息を飲み込んだ。この堂々たる横顔も勝気な笑顔も、元影武者のものである。
 他家とはいえ同じく影武者をしていた身としては、彼彼女らに同情の念を禁じえなかった。いなくなった主人のフリをし続けるなんて、それが生き地獄でなければなんなのだろう。想像するだけで背筋が寒くなるような仕事だった。
 だが偽者であれ、誰にも知られなければそれは立派な候補である。
 お屋敷の格から考えても、まさしく順当。イリーディア様のご意思もあるが、私個人としても応援する気持ちしかなかった。
 亡き主人が得るはずだった名誉なのだ、おそらく弔い合戦のつもりで臨んでいるに違いない。なんとしてでも掴みにいくだろう。

「人気ねー、シャルロッテ様! お優しい方って話だし私たちも安心だものね」
 春のお国の歴史を振り返ると、おかしな成り上がり者がはしゃいだ結果、血で血を洗う争いに発展、なんてことも多い。現状維持を望みがちな血縁が連れ添うのは、他国民にとって大きな安心材料である。
「ジェシカ様、おかわりいかがです?」
「もらえる? ありがとう」
「ていうか、リックぜんぜん戻って来ないですねー。厨房から茶菓子もらってくればよかったなー」
 小さく音を立て注がれる琥珀色のそれと、カップを受け取るのどかな笑顔と会話は、私にとってまだまだ見慣れぬ光景であった。

「皆様、仲がよろしいのですね」
ポロリと口からこぼれ出たのは本音であった。
 主人と和気あいあいとお話ししながら茶を啜るなんて考え難い経験である。
「年が近いからかしら。ルカは幼馴染だしね」
6歳くらいからうちにいるのよ、と、はにかんだ。
「さようでございましたか」
 どうりで、ルカ先輩がジェシカ様に対してちょくちょく苦言を挟むわけである。いや、幼馴染だからと許される行為ではないが、ジェシカ様もそうされた方が気楽なのだろう。
 ふと目が合ったギル先輩は、首を振った。
「俺は違うぞ? まだ5年くらいかなー」
「そのわりに引くほど知り合い多いよな」
「そー? こんなもんだろ?」
 “こんなもん”がわからない私が言うのもなんだが、きっと普通ではない。
 一度だけギル先輩とお使いでご一緒したが、通りすがる老若男女が親し気に挨拶をしてきて面食らったものである。おまけに道ばたに座って休んでいるご老人に順番に声を掛け、ついでだからと荷物を抱えて送り届け、家族に茶を出され楽しく談笑した挙句爆笑を浚い、来たときは牙むき出しで唸っていたはずの番犬まですっかり懐柔し帰り際は別れの抱擁までしていた。
 これがすべて初対面の日に行われるのだから、もはや私の理解を越えていた。
「ルカは友達いないもんな……」
「遊ぶ時間ないんだよ、どっかの誰かさんがサボるから」
「こらーダメだろレオー、サボったらー」
茶を噎せて咳き込んでしまった。
 コロコロと笑い転げるジェシカ様を前に、血の気が引いた。
「、事実無根です、仕事には誠心誠意取り組んで、」
「えぇ! よく働いてくれてるって聞いてるわ?」
わかってるから大丈夫よ、と優しく微笑まれ、愛想笑いが引きつりかけた。
「お前だお前、このサボり魔」
笑いながら肘鉄を食らう姿を、まだ痛む胸元をさすりながら見つめた。

 ……どうやら、早急に冗談を学ぶ必要がありそうだ。

***

 仕事終わりには、リック氏の予言通り先輩方に飲みに誘われた。
 んじゃ着替えたら適当に集合な、と使用人寮で一時解散となった。

 新参者の私は、二階建ての寮の一階一番手前の部屋である。大旦那様のお屋敷や帝国のお屋敷と違い、使用人たちにも個室が与えられていた。これと同じ寮がもう3つあり、1つは屋外仕事の女性用、もう2つは代々働いている家の者が男女別で暮らしているそうだ。家族で暮らす場合は屋敷の外で家を借りる場合が多いらしい。
 集団で暮らしたことのない私は、これから大部屋生活になると思い込み勝手に不安を覚えていたのだが、完全個室で安心した。土地に余裕があるとは素晴らしいことである。

 隣がギル先輩で、ルカ先輩は一番奥の部屋だった。お屋敷にいるのが古い人間から、奥の部屋に住んでいるそうな。2階にはシフトが昼当番じゃない人間が暮らしていた。
 あてがわれた部屋は、帝国で使っていた隠し部屋よりずっと広かった。ただ設備の類はなにもなく、机とベッドが一つずつあるきりである。
 部屋の内装は自分で好きなようにしていいそうで、部屋の形が変わるような改造でもなければ何を飾ってもどんな家具を入れても問題ないとのことであった。住むにあたって特に定められた事項はないらしいが、寮で無駄に騒ぐと早番や遅番で寝てる人間に深夜やり返されるので極力しないように、と告げられていた。
 シフト制のため早朝や真夜中の当番の者もいるそうだが、生活リズムが違うので顔を合わせることはこれからもなさそうである。

 自由にしていいと言われたものの、あるもので納得する生活をしていたのでなにを増やせばいいかわからず、結局この半月ベッドと机だけで過ごしてしまった。
 食事は屋台に行くかお屋敷の厨房からいただく形だったので、寝に戻るだけなのはこれまでと変わらない。殺風景な空間にも慣れており、せっかく個室生活となったのにこれでは空き部屋と大差ないなと思う。
 一般的な部屋にどんなものが置いてあるのかよくわからないが、まさか庶民の部屋にイリーディア様のお部屋にあったような華やかな細工の施された家具や、人間ほど大きい花瓶を飾るわけにもいくまい。

 自室に入るなり後ろ手に内鍵を掛け、ポケットに手を突っ込んだ。少し皴が寄っていたのを指先で伸ばす。今日届いた手紙の中身を、まだ改めていなかったのである。
 ぱっと見はのどかな内容であった。就職おめでとう、そちらは過ごしやすいか、などと帝国の旦那様の強い癖字で綴られているきりである。ぱっと見、では。
 リック氏が帝国語を読めると思っていなかったのでややたじろいだが、読まれてそうとわかるような安易な暗号文を使っているわけがなかった。仮にも天下の帝国である、暗号も複雑であった。
 国内での足の引っ張り合いもあるため、元帝国軍は情報漏洩に対し非常に神経質で、暗号も当人同士でわざわざ一から作りだす。他の誰にも読めるわけがない。
 日付、使用されているインクの製品番号、手紙の枚数、その他いくつかの情報で計算して出た幾つかの数字に則り、文字を飛ばしながら必要な言葉をはじき出す。

 内容は予想通り、イリーディア様からの小さなお使い仕事であった。
 南西にと誘導されたので、当然なにかしらの仕事が来るだろうとある程度予想していたが、内容は少々意外であった。
 とはいえ、それは私の考えることではない。我々の立場で全体像を知らされることはほぼない。おそらく、もし誰かが捕まり口を割ったとしても困らないようにしているのだろう。
 雇用関係は切れているので断っても構わない、とのことであったが、物心つく前からお世話になってきたのだ。どのような仕事であれ、申しつけられた以上は可能な限りお応えする所存である。

 土埃のついた服を脱ぎ、悩んだあげくいつも通り汚れを内側にして小さく丸めた。
 洗濯などは寮にも専従の使用人がおり、個人でやることは特になかった。寮の裏手に洗濯室があり、決まった日に出しておくと洗って干すところまでやってくれるのだ。
 自分の分は自分で回収する決まりで、だいたいの人は洗濯物を出す際に乾いたものを回収していくので私もそれに倣っている。そこまでは別にいい。

 問題は、洗濯に出すまでどうするかである。
 これまでのお屋敷では、着ていた服は回収に来た人間に渡すだけだったのだ。出すまでの間、どのように保管しておいたらよいのかさっぱりわからない。いつもなんとなく小さく丸め、部屋の隅に置いてお茶を濁してきたが、丸まった衣類を見るにつけ己の無知を否応なく痛感させられ不愉快であった。
 これまでのお屋敷で、こんな放置のされ方をした衣類を見たことがない。だがまさか他人の部屋に入って「洗濯物を出すまで、いつもどうなさってますか」と尋ねて回るわけにもいかず、日々脱ぎすてた衣類を前に首を傾げ丸めるばかりであった。

 履き替えたズボンのポケットへ、渡された給金の一部と共に手紙もしまった。暗号文とはいえ、無防備に部屋に置いていく気にはなれなかった。
 そもそも、このような簡易な鍵で戸締りになるのか甚だ疑問だ。
 首から革紐で下げていた古びた鍵は、経年からか鈍い色を放っていた。戸の前に丸めた衣類をよけつつ、部屋を出て鍵をかける。隣の扉をノックすると、へーいと間延びした返事が戻った。

「早いなおい。いま解散したとこじゃん」
 扉が開き、招き入れられた。ギル先輩は先ほど解散した時のままの恰好であった。土埃だらけなのに気にせず、床に胡坐をかいた。
「外でお待ちしましょうか」
「いやいい。一人で部屋にいるとまたボーっとして忘れちゃいそうだし」
 先輩の部屋は雑然としていた。個人部屋というより倉庫のようだった。見たこともないどこかの土地の民芸品と思しき生き物を模した置き物や、よくわからない怪しげな表情の大きな面がいくつも飾ってあった。
「この置き物は、いったい……」
「ん? あぁ、それ? なんだろうな?」
なんかで手伝ったどこそこの人がくれた、とケロリと言った。
「ではこの面は」
「さー? 貰ったもんだからよくわかんねえや」
 くり抜かれた目の向こうには暗闇があった。このような不気味なものを、よく自室に飾る気になったものだ。これが一般的な庶民の部屋ではないと信じたかった。これに倣った場合、自室でも落ち着かないに違いなかった。
 失礼にならない程度に軽く部屋を見渡すと、かろうじてまとめて置いてあるものの、服が床で皺くちゃになっていた。

 自分で取り付けたと思しき壁の棚では、大きな白い巻貝が薄く埃をかぶっていた。棘のような鋭い先端がいくつも生えており、見ようによっては武器のようだと思った。
「立派ですね。こんなに大きな貝があるとは」
 春のお国にも海はあるので貝殻も見たことはあったが、私は帝国との国境、つまり内陸育ちなのでここまで大きいものは見たことがなかった。
「潜ったときに集めてたやつ」
真珠とか貝殻は内陸で売ると意外と金になるんだ、と言った。
「海に? 潜ってらしたのですか」
「? 素潜りとかしてたし」
 絶句した。信じられん。あの寄せては返す恐ろしい波に身を投じるなんて。
「ほんとは親父や兄貴みたいに漁師になる気でいたんだけどさー。来てみたら楽しいのなんの!」
晴れやかな顔であった。
「ちょっと稼いだら戻るつもりだったんだけどな。そのまま居ついちまった」
いやーわからんもんだ、と先輩は一人で頷いた。
「内陸がこんな豊かだなんて知らんかったし、向こうにいたときは別に不満もなかったんだけどなー。もしこのまま帰らなかったら、もう自分で海に潜ることもないかもしんないなーと思ってさ」
だから、一つだけ売らずにそのまま手元に置いているのだと先輩は言った。海辺の人間だということを忘れそうになるから、と。

「つうより、向こうに戻って前みたいに俺はやってけんのか? っていう」
と、着ていたTシャツを皺くちゃの上に放った。
 なんとなくわかるような気がしてしまった。
「……こちらは良いところですから。気候もちょうどよく、人も大らかで」
 帝国からたどり着いたとき、このあまりののどかさに(まるで絵画の中のようだな)と思ったことを思い出した。影武者なんて単語は、ここに来てから一度も聞こえてこない。寿命や病以外で人が亡くなった話はおろか、殺された話すらほとんど聞かない。
 まるで別の世界に来てしまったかのようだった。
 これまでの生活とはかけ離れた穏やかな時間が流れるばかりで、今日手紙を渡されるまで、これまでの生活が夢か幻だったような気さえしていた。いまとなっては、果たして良い夢だったのか悪い夢だったのか。
「でもさー、こっちのメシってなにせ魚が出ねぇだろ? ちょっと味気ないつうか、それだけがヤなんだよな」
魚が食いてぇなー、と珍しく大きな溜め息を吐いた。
「お魚ですか。海鮮はほとんど食べたことがありません」
なにせ内陸育ちなのである。
「!! マジかよなんでだよ食っとけよー! 損してるぞそれ! なんか内陸のやつは怖がってあんまり食いたがらないけど、海のもんってめちゃくちゃうまいんだぞ?」
「そうなのですか?」
「そうだよ!」
あんなうまいのになんで皆こわがんのーと続き、その言葉をぼんやりと反芻した。
「それほど美味しいのですか?」
「うまいよ! 少なくとも俺は好き!」
 珍しく熱の入った言葉に、もったいないことをしてしまったと思った。
 こちらのお国をふらふらしていたときは、食べなれぬものを食べて体がビックリしてはいけないと思い、海鮮を避けていたのである。
 海辺では掌ほどもある平らな貝殻を焼いている屋台をいくつも見かけ、嗅いだことのない匂いにつられ興味をそそられてはいた。だが食べると言われても、開いた貝の中身はこれがなかなかグロテスクで、どうしても勇気が出なかったのだ。
 美味しいのか、あれは。一度くらい食べておけばよかった。
「どっかで休暇かぶったらうち遊びに来いよ、魚食わしてやる! そうだルカも誘ってやるか、あいつ友達いないし!」
「それは楽しみです」
 しかしそれでは小屋の使用人が、昼シフト担当がいなくなってしまう。私の指摘に、そのころにはまた誰か雇われてるだろ、と先輩はまったく気にしてなさそうに笑った。どうも実現する日は遠そうである。
 怪しげな置物と、また目が合った。ギル先輩の部屋は、私にはとても参考にできない。
「ルカ先輩のご様子を伺ってきます」
了解の声を背に受けつつ、部屋を後にした。

 寮の北側へと向かい部屋をノックすると、入ればーと返事が飛んできた。
 ノブを回し中を覗くと、多少生活感はあるが充分小綺麗であった。ギル先輩の部屋とは種類の違う感じだ。仮面や置物はなく壁にはポスターがいくつか貼られ、戸の死角には木製のポールラックがあり服がかかっていた。

 着替え終わった服を、先輩はポイポイと同じ場所に投げていた。下に大きな麻袋が敷いてあり、私がしげしげと見つめていると、持って行くときにラクだと教えてくれた。思わず順番に指をさしていた。
「……それと、これとあれを真似しても?」
「? 別にいいけど。真似するようなことか?」
皆してるだろこんなの、と言われ首を振る。
 ギル先輩はしていなかった旨を述べると、あいつはざっくりしてるから……と言葉を濁された。
 様子など見ずとも、ルカ先輩なら素直に乞えば教えてくれるだろうと思い直した。
「実は個室での生活の勝手がよくわからず、まだ手探り状態なのです」
これまで大部屋の使用人室で過ごしていたので、と適当なことを続けると、目を丸くしつつも「そうなのか」と納得してくれた。
「んー。とりあえず、ポールハンガーは俺にはわりと便利だった。服シワにならないし畳まなくていい。洗濯もん入れる袋は洗える素材にしとくといいぞ」
土で汚れたとき洗えると便利、と言われ、勉強になりますと返事をすると、大げさだと苦笑しながら先輩は手をはためかせた。

 壁には地図が3枚貼られていた。大陸の全体図と秋のお国の地図、そしてこの近辺の地図だ。どの地図にも、赤い印で現在地が小さく書き足されていた。
 大旦那様のお屋敷も、イリーディア様がいらっしゃる帝国の旦那様のお屋敷も、こうやって見るとずいぶんと距離があるものだ。
「地図、珍しいか?」
「あまり見たことがございません」
勉強の折に提示されたくらいで、それ以外で見たことはない。
「まぁ、俺も貰ったやつなんだけど。ガキの頃にジェシカ様の付き合いで一緒に勉強教わってて、そんときあれこれ聞いてたらリックが取り寄せてくれてな」
懐かしそうな声に、そういえば、と疑問が口をついて出た。
「先輩はリックさんと同じくらい、こちらでの生活が長いと伺いましたが」
「ん。親とはぐれたときに拾われて、そのままお世話になってる」
15年? いやそんなに経ってないか、と先輩はひとり首を捻った。
「お屋敷勤めになったら、遠くまで出歩くこともめったにないだろ。だから、他国はどのくらいの距離だろうとか、俺ん家はどのへんになるんだろうとか」
地図見て想像したりしてた、と先輩は続けた。
「こう見ると、お前もけっこう遠くから来てるんだな。帝国だろ」
「そうですね。ずいぶん遠くなってしまいました」
 地図の上で、大旦那様のお屋敷と帝国の旦那様のお屋敷は、たった20センチほどの距離だった。大陸は広いのだ。
 春のお国にいた頃、私は世の中を知っている気でいた。世間の裏側を知ることで表側も知った気になっていたのだ。そして帝国に移住したことで、その思い込みはより強固になった。
 他国の野菜の名もわからぬほど、世間知らずであったのに。愚かなものである。

 ふと目についた。見覚えのある小さな白い粒が、机上の小さな瓶に入れられていた。
「集めていらっしゃるのですか」
ズボンのポケットから小銭をジャラジャラと移しながら、んー? とこちらを向いた。真珠の瓶を見ていた私に気づき、頭を掻いた。
「あー……、なんか物珍しさに一時期ひと粒ずつ買ってたことがあってな。この辺じゃ珍しいだろ、海辺のもんって」
その割に数は多くなさそうだった。
 私の疑問に気づいたのか、食えないようなもんに金払うのもなって気づいてやめた、と苦笑いした。
「処分すんのはもったいない、でも売るには少ない。結局そのまま飾ってんの」
 確かに、装飾品にするには少ない数だ。粒も小さいし10粒もなさそうだった。ピアスやリングくらいには出来るだろうが、農夫にアクセサリーは怪我の元かもしれない。
「海辺のものは美しいですね。ギル先輩のお部屋には、大きな貝殻がありました」
「あれ。レオ内陸育ち?」
出身は春だったよな? 海辺じゃないのか、と問われ頷いた。

 私の出身はイリーディア様のご実家がある、春のお国の帝国との国境で、大陸の内陸に位置する。
 海のある春のお国出身であり、春の民の主要宝飾品である真珠も散々身にまとい、人の宝飾も見てきたが、海そのものはこのお国をまわった折に目にしたきりである。
 寄ったら記念に一度は海に入ってみようと当初は考えていたのだが、実際に目の当たりにすると寄せては返す波に怖気づき、とてもじゃないがあの波間に入るなんて実行できなかった。
「んじゃ、国は違えど俺と同じだな」
「ルカ先輩は海辺のご出身ではなかったのですね」
「春のお国との国境だよ。ただこのお屋敷みたいな大陸の中の方の国境じゃなくて、海寄りと言われればそうかなって感じの中途半端なとこだったから。あっちは結構田舎なんだよな」
出稼ぎしてるくらいだしな、と口角を片方上げた。

***

 こちらは暮れるのが早い。寮を出ると、空はすっかり夕焼けになっていた。
 地べたに座って待っていたギル先輩が、尻に付いた土をはたきつつ立ち上がり口を開いた。
「なに食うー?」
「レオは? 食いたいもんあるか」
「先輩方はどういったものをご希望ですか」
 そういう答えは存在しないらしい。遠慮しなくていいぞと続き、思い出した。
「でしたら市場の、ちょっと辛い物を扱っているお店がありまして」
途端に静かになり、空っ風の吹く音がした。
「? 辛いものは苦手でしたでしょうか」
「、いや、俺はわりと好きなんだが」
ルカ先輩がちらりとギル先輩を横目で見た。
「っ俺今日は野菜が食いたい気分かも! 聞いといてごめんなーレオ、野菜は嫌いか?」
「? なんでもおいしく食べられます」
「そうか! えらいな!」
「恐縮です」
 いつもあんなに肉肉と言っているのに。
 あの店はそんなに辛いのだろうか。しかし客足は多かったし、食べられないような辛さではないはずである。
 ルカ先輩に目で軽く合図され、私は開きかけた口を閉じた。

 この時間に出かけるのは、雇われて以来初めてである。昼間に比べてグッと人が減り、屋台のある通りは明かりがついているが、それ以外は店じまいを終えており路地も暗かった。
 安いしここでいっか、と辿り着いたのは飲み屋である。ずいぶんと繫盛している。人が多く賑やかな店であった。
「なに頼む? 俺、肉がいいなー肉!」
先ほどの野菜が食いたい気分とはなんだったのか。
「適当に頼んで分けりゃいいだろ、レオはなんか苦手なものあるか?」
「特にはございません。なんでも食べられます」
だろうな、お前引くほど食うもんね、と双方から言われ口を噤んだ。
 とりあえず食べたいやつ2品ずつなと言われ、壁に貼ってあるメニューを適当に読み上げた。文字は読めても、料理名から出来上がりはまったく想像がつかなかった。
 乾杯もそこそこに、ギル先輩が肘をついた。
「顔がよかったからさー。俺、てっきりレオは逆玉狙いだと思ってたのになー。ぜんぜんまじめに働いてるよな」
「? ギャクタマとはなんですか?」
お嬢様だよお嬢様! と手をはためかせた。
「お可愛らしい方だけどさ、結婚適齢期は過ぎ、ってぇ!!」
ルカ先輩がその後頭部をひったたいた。頭を押さえた顔は涙目であった。意外と強めに叩いたようである。
「やめとけ、不敬罪待ったなしだぞ。……まぁでも確かに、ジェシカ様目当てに来たやつも少なくはない」
「だろー……?」
 これまで言語はきっちり学んできたつもりだったが、実際に過ごしてみると案外知らぬ言葉が多かった。隠語や略称が多いのだ。
「勉強不足のようで恐縮です。ギャクタマとは、どういった意味の言葉ですか?」
あ、そこ?? と目を丸くされた。
「良い家柄の女の人んとこに、俺を婿にして♡って庶民が突撃していくこと」
「もっとマシな言い方あるだろ」
 あぁ、帝国の旦那様が言われていたやつか、と思う。
 春のお国の1等家貴族令嬢であるイリーディアお嬢様に、書類上婿入りという形で帝国の旦那様は結婚され、周りからはなんのかんのと言われたようだ(当のご本人はというと、もともと神経の太い方なので『言いたい奴には言わせておけばいいんですよ。この幸運の前ではどんな罵詈雑言も無意味ですから』と高らかに笑っていらしたが、……まぁ、機会があれば闇討ちしに行きますけどね、と真顔で仰っていた)。

 ただ、私が逆玉などと考えるわけがなかった。貴族社会の恐ろしさを、物心ついてからその傍らで見てきた人間である。
 あのような張り詰めた生活を送りたいだなんて、もはや正気の沙汰ではない。
「身分違いも甚だしいことです。なんの教養もない一般人が、貴族様の生活に溶け込むことは不可能です」
「そうか? レオは真面目だなー」
「そのような身の程知らずが実在するのなら、ぜひお会いしてみたいものです」
素直な感想であった。
「いたぞ。なぁ身の程知らず」
珍しく厳かな顔をしたギル先輩がおもむろに挙手した。

「――こんばんは。身の程知らずです」

 嘘でしょう!? と口から出そうになった。
「、ギル先輩」
「いや~、未婚のご令嬢で年近いってなったら来ちまうよそりゃ~」
「っそうでしょうか? 理由になりませんでしょう!」
「なるなる、なるんだよ充分。だってこちとら生活だけでいっぱいいっぱいなんだもん。逆玉キメたら家族だって安泰だろ? 貴族で行き遅れなんておっかない方なのかなー、でもちょっとくらいならぜんぜんイケるのになーとか思ってたんだけど、ジェシカお嬢様はあの通りだし」
開いた口が塞がらない。無礼、不躾、とんでもない。
「めったなこと言うんじゃないっつの」
 ルカ先輩のたしなめる言葉すら、私の耳には空虚に響いた。
 なにせとんでもない言い草である。時代が時代なら不敬罪待ったなし、いまごろ首と胴体が泣き別れ間違いなしである。
 もしイリーディア様がどこぞの庶民に同じことを言われていたとしたら、迷うことなく私は嬲り殺しに行き、その不届き者の生爪を一枚ずつ毎日生家に送り付けていたことだろう。
「こんなにお優しいんだし、もしかしたら脈アリじゃね? ……って思ってたらもう、全っっっ然!」
ハナから眼中にねぇからお優しいわけ、と肩を竦めて首を振った。
「当たり前だろ」
「当たり前ではないですか」
「えっ、当たり前なのこれ?」
貴族の優しさをなんだと思っているのか。あれは好意の表れではなく、ただのマナーである。

 ただ貴族令嬢は、幼少期に婚約し成人と共に結婚するのがほぼ唯一絶対に近い王道なのも事実であった。3等家三女とはいえ貴族であるジェシカ様が、その王道に反している。非常に稀有なことである。
 イリーディア様のようになにかご事情があるのだろう、私のような者が気にすることでもないと思ってきたが、情報収集の任を賜った以上は不躾な質問もせざるをえない。
 これから、どんな情報が必要になるかわからないのだ。
「……。しかし、なにか理由がおありになるのでしょうか」
「レオー、そういうのは訊いちゃダメなんだぜ」
お前が言うか? とルカ先輩が呆れた顔をした。
「お優しい方ですし、ご縁はいくらでもあると思うのです」
 これは嘘偽りのない感想であった。
 朗らかで率直なお人柄、そして家柄もある。庶民的な言動だが、必要な教育を放棄してきたわけでもなさそうだった。王族までいかずとも政略婚の話はたくさんあっただろう。
「まぁそうだよなー、そう思うよな。で、どうなのルカ」
「俺に訊くな」
なおも我々が黙って見つめると、ものすごく嫌そうに顔を歪めた。
「ご注文の品でーす! どぞー!」
「どもー」
 秋風に湯気が舞い上がる。店の外からは、賑やかな店内に負けじと鳴く涼やかな虫の声がしていた。

***

 二軒目は遠慮して、少し散策することにした。普段はお屋敷の敷地内で働いていることもあり、最近は屋台にしか寄っていなかったのだ。
 ふと人けのなくなったところで、路地から獣の暗い声がした。足を止め覗き込むと、飼い主とはぐれたのか路地に迷い込んだ山羊が一匹、たじろぐことなくこちらを見つめていた。焦れたダミ声で一声鳴いた。
「よろしればどうぞ」
ポケットから差し出すと、見る間にもしゃもしゃと咀嚼した。
「助かります」

 酔っ払いがふらつく大通りへ戻り、飲み屋街とは反対方向へと歩を進めると、煌々と明かりのついた店があった。なんとなく、吸い込まれるようにして寄っていくと花屋であった。夜に花屋とは珍しい。店は意外と賑わっていた。
 店頭に置いてあるぶんだけでも華やかで見ごたえがあり、いくらか懐かしさも覚えたが、光と花に集まるなんて蛾のようで滑稽だなと思った。
 イリーディア様のお部屋には、いつも花が飾られていた。幼くしてお部屋に籠りきりになったお嬢様を心配し「せめて外の季節感だけでもお伝えせねば……!」と側仕えがあれこれ取り寄せてこまめに飾っていたのである。
 名前はよくわからないが、見覚えのある花がいくつもあった。ここは国境であるし、花産業の盛んな春のお国から仕入れているのかもしれない。

「見慣れない人ね、贈り物?」
顔を上げると、こちらの人間らしい容姿をした娘がニコニコとしていた。ジェシカ様より幾ばくか若いだろうか。揃いのモスグリーンのエプロンを見るに、おそらくここの店員だろう。
「いえ、自分用です。部屋にあるといいかなと思いまして」
「お部屋? ならこれとかどう? 華やかになるわよ!」
言葉通り華やかな赤だった。
 赤はあまり好きな色ではない。そちらもとても素敵ですが、とやんわり辞退した。
「陽光のような淡い黄色はありますか。あと、夜みたいな深い紺のものと。部屋の机に飾りたいので、小さめだとありがたいです」
 口をついて出たのは、イリーディア様のお髪の色と、帝国の旦那様がお召しになっていた自警団の外套の色であった。価値観はなかなか変わらない。

「なんでもあるわよー、ちょっと待ってね」
小さめのお花は奥にあるのよ、と言いながらパッと店の中へと引っ込んだ。手を伸ばしていくつか見繕うと、よいしょと花を上に掲げこちらを見た。
「これとかこれはー? 可愛いわよ!」
「ではそれを。花瓶の取り扱いはありますか?」
いっぱいあるわよー、とさらに奥へと引っ込んでいく。こっちこっち、と今度は中へと手招きされ、私は歩を進めた。
 所狭しと道の左右に並べられた花で、それぞれの香りがごっちゃになっており、見た目も空気も賑やかだった。
 奥には色とりどり、そして大小形も様々な花瓶が机と床に所狭しと置かれていた。小さい花瓶は机の上に並んでいた。花を生けなくても、これだけたくさんあれば華やかなものだなと思った。
「どの色がいいとかある?」
「そうですね……。そちらのものをお願いできますか」
透明感のある紫色を指差した。大旦那様とお嬢様の瞳の色だ。
 はいはい了解と述べながら、今選んだ花瓶にスポンジのような物を入れると、そこに水を差しさっきの花を生けた。手際よく紙でくるみつつ、金額を述べられ私はポケットから幾枚かの銅貨を取り出した。
 はい確かに、と受け取った娘は、ふと不思議そうに口を開いた。

「花瓶、割れちゃったの?」
え、と顔を上げると、だって家にないんでしょ? と続けた。
「いえ、こちらに越してからまだ日が浅いもので。ほぼ身一つで来たものですから、部屋にはまだなにもないのです」
「あらそうなの、最初に買うのがお花だなんて素敵ね」
花って必需品じゃないから後回しにされがちでしょ? と笑った。言われてみればそうである、どちらかというと娯楽に近いものだろう。
「はいどうぞ! ありがとうございましたー!」
「見繕っていただきありがとうございました、助かりました」
渡された袋を受け取り頭を下げた。
「また来てねー!」
「はい、また」

 買った物を手に下げて歩く。
 堂々となにかを持って通りを歩くなんて日が、私の人生に訪れるとは。

 使用人棟の明かりはまだほとんどついていなかった。飲みに出たきり、まだ誰も戻っていないようだった。自室へと戻り、丸まった洗濯物を足でどける。早速つつみを開け、出たゴミを片付けるより先に机に飾った。

 花なんて初めて買った。
 黄と紺の花に紫の花瓶。色合いがちぐはぐになってしまったか、と苦笑する。
 ――まぁいいか。
 まだまだ殺風景だが時間はあるのだ、少しずつでいい。これから過ごしやすい空間になるといい。

続き 5話 元影武者、新規任務を賜ること

  6話 元影武者、手紙を書くこと

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