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7話 元影武者、与り知らぬこと

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Dominion

前の話 ⇒ 1話 影武者、職を失うこと

    ⇒ 1.9話 * 夜行列車にて *

    ⇒ 2話 元影武者、面接をうけること

    3話 元影武者、お使いに行くこと

    4話 元影武者、花を買うこと

    ⇒ 5話 元影武者、新規任務を賜ること

    ⇒ 6話 元影武者、手紙を書くこと

***元影武者、与り知らぬこと***

 今日は朝から強い雨が降り続けており、平素よりいっそう肌寒く感じられた。
 厨房の窓を横殴りに打ち付ける激しい雨音を聞きながら、私は手にしていたカップを静かに下ろした。先ほど食べ終えた食事の、よく効いた香辛料の匂いが漏れ出ているような気がして、無意識に手で押さえつつ口を開いた。

「――お祭でございますか」
我ながら間の抜けた返事が出たものだ。対面には穏やかな笑みがあった。
 ジェシカ様の御髪は珍しく前髪から編み込まれており、後ろまできっちりと結い上げられていた。髪飾りのアメシストは穏やかな光を放ち、それがまたよくお似合いである。
「他国ではどんな感じかしらって、前から気になってたの。せっかくだからあなたに訊こうと思って」
 優しく細められたジェシカ様の黒い瞳を見て、私は弱りきり俯いた。ここが厨房にしろ、お屋敷のお嬢様とふたりきりで対話するなど許されるはずがない。

『外使用人の分際で二度とお屋敷に上がり込むな(直訳:クビにするぞ)』
と、以前に青筋を立てたリック氏に言われ済みなのである。あの調子なら、この状況を見てどんなお叱りを受けるかわかったものではない。
 しかしわざわざ足を伸ばしこちらまで出向いてくださった主人を、無下に追い返すわけにもいくまい。大部屋に出払いすっかり誰もいなくなった厨房の片隅で、楽しげに話し続ける主人を前に、笑顔を崩さぬよう努めながら私はあれこれと言い訳を考えていた。
 雨日は使用人が厨房に殺到するのを防ぐため、お屋敷1階の大部屋が開放され終日賄い飯が振る舞われる。皆、飲食街まで雨の中を行くのが面倒なのだ。厨房の皆さんにとっては地獄でしかない忙殺日である。
 かつての習慣からか時折無性にひとりになりたくなる私は、雑用をいくらか請け負う代わりに厨房の一角をお借りして、黙々と食べさせてもらうのが雨日の常となっていた。人と過ごすのも慣れたが、雨音を聞きながら過ごすひとときは他のなににも代えがたかった。
 そして皿を洗い終えちょうどひと息ついたころに、供も連れずにジェシカ様がひょこりとお顔を出されたのである。逃げようもないだろう。

「この辺りのお祭ではね、豊穣の神様を祀るの。日々の食事と季節の実りに感謝して、普段とは違った食事やお菓子が振る舞われるのよ」
どれもなかなかおいしいんだから、と誇らしげに仰った。
 戦時はそれどころではなかったため、地元の祭の開催そのものを取りやめていたそうだが、戦後すぐ地域復興のため外貨獲得に乗り出した旦那様が身銭を切って再開させたそうである(きっと、帝国の私財召し上げからうまく隠し通せた資産の一部でしょうね、とジェシカ様は笑った)。
 ジェシカ様は成人を期にいくつかの仕事を旦那様から一任され、祭の運営もそのひとつとのことであった。余所から来た人間でも楽しめるように毎年あれこれ趣向を凝らすそうだが、そもそも他国へはほとんど行かれたことがないそうで、より良くしたい気持ちはあっても案が浮かばず毎年途方に暮れるらしい。

 だが情報を乞われたとて、私はそんなものにはこの半生で一度も行ったことがない。近くに寄ったことすらない。どのようなことがなされているか、それこそ見当もつかなかった。
 どこぞの屋敷の庭園で催された茶会だとか、品種改良に成功した花の鑑賞会ならまだ覚えもあるのだが……と内心項垂れる。
「余所ではどんな屋台が出たの?」
晴れやかな笑顔で問われ、言葉に詰まった。今回ばかりは誤魔化しようがなかった。
「大変申し訳ございません、そういった催しには疎く……」
ジェシカ様はキョトンとされた。
「? 春のお国にもいたし帝国にもいたのよね? どちらの話でもいいのよ?
 なにを祀っていたのかだとか、どういったものが売られていただとか、そういったなんでもない話が聞きたいの」
と譲歩案まで提示いただいたが、いっそう俯くほかなかった。

「――まさか行ったことないの?」
「……面目次第もございません」
「、どうして? いろんな食べ物がたくさん出るでしょう? むしろあなたは楽しみにしてたんじゃないかと思って、……そんなにひどい職場だったの?」
思わぬ言葉に返事に窮した私を見て、なにを誤解したのか悲しそうな顔をして一瞬黙ってしまわれた。
「……そう。レオナルドにもお休みをあげるよう言っておくから、今年はたくさん遊んできなさいね」
楽しみにしててねと慈しむような笑顔を向けられ、ただ頷いた。どうも私は誤解をされやすいようである。

 ふと、布地に跳ね返る雨粒の音が強く聞こえた。見やると外扉がわずかに開いており、傘を片手にこちらを覗き込むキャップ姿があった。その菫色の瞳と目が合った。
「おいレオ、こっちにジェシカ様、」
来てるな……と尻すぼまりに口を閉じた。ジェシカ様が先輩に手を振っていらした。
 厨房にいたってリック達に言っといて、と後ろを振り向き溜め息交じりに述べると、死角から了解とのギル先輩の声と、去ってゆく慌ただしい足音が聞こえた。
 ルカ先輩は軽く傘の雫を払うと、出入り口に出してあった古びた壺に挿し込んだ。被っていた帽子に手を掛けるのを、そのままで構わないわとジェシカ様が厳かに制した。先輩は丁寧に会釈し我々の向かっていた卓の椅子を引いた。
 なぜ主人の前で脱帽せず許されるのか、なぜ先輩は普段より礼儀正しいのか。疑問が顔に出ていたのか、おふたりは私を恨めしげに眺めやり「……レオナルドにはわからないわよね」「さらっとした髪しやがって……」と嘯いた。わけがわからない。

「人が戻る前にお渡ししておきます。ご所望の品です」
おもむろに懐から紙束を取り出すと、濡れてないと思いますけど、と四隅の皺を伸ばし差し出した。
「ありがとう! 今回はルカが探してきてくれたのね」
「サボり魔の外出禁止が解けてないんで、仕方なくです」
 何食わぬ顔で続いた言葉を受けて小首を傾げたものの、ジェシカ様はなにも仰らなかった。盗聴器の1件は箝口令が敷かれ、お屋敷の一部の人間しか知らない。旦那様のご意向なのか、ジェシカ様にすら伏されている。
 あの騒動以降、外で挙動不審になってしまうギル先輩は、表向き『サボりが続きすぎたせいでついにリック氏の堪忍袋の緒が切れ、外出禁止が言い渡された』ということになっていた。現在も、罰と称して休憩も短めである。
 というのもギル先輩本人から「無理! 誰としゃべっても俺すぐボロ出すと思う!」との正直すぎる申し開きがあり、これは苦肉の策であった。

 受け取った号外をご機嫌で広げると、以前と同じく弾んだ声を出された。
「! ウソ!? 候補がこんなに減ってるわよ!?」
え、と思わず言葉を漏らすと、ほら見て、とこちらに向けられた。
 その文字列に、眉間に皺が寄りそうになった。なんとあれほどいた候補者が、たったの数人になっている。楽しみだとはしゃぐ主人に笑顔で同意しつつ、思う。

 ……これはなにかあったな。
 突然辞退が相次ぐなんて、明らかな異常事態である。
 ここまで来て候補者の屋敷同士でやりあうことは考え難い。無茶な真似をして醜聞が広まれば、それこそ娘の立場がなくなってしまうからだ。きっと、業を煮やしたどなたかの後援者が匿名で候補者たちを脅しつけたか、候補本人が“不運な事故”で心身に不調を来たし周りを怯えさせたか。なんにせよ、穏やかじゃないなにかがあったに違いない。
 勝手にあれこれと思い描きはじめた自分に呆れた。他人ごととなると、どうも下世話な方向に発想が向かってしまうようだ。当人たちは身を削って臨んでいるというに、失礼な話だ。

 とはいえ、ジェシカ様の仰る通り婚約者決めも佳境は佳境である(本来なら10年近く前に佳境を迎え、5年近く前にご成婚されているはずなのだがこれは言っても仕方がない)。
 ここから先はいかにして候補に残るかではなく、いかにして穏便に辞退し、そしてどの候補の後援に付くかを表明せねばならない。各屋敷の今後を決める重要な撤退戦でもある。ここをしくじれば、つまり後押しした候補が未来の王太子妃に選ばれなければ、突風のごとき速さで春の貴族社会から屋敷ごと干され凋落する。
 春の大旦那様とイリーディア様は、シャルロッテ様を推す王族派。大番狂わせでも起きなければ安泰である。
 号外のチラシには、変わらずシャルロッテ様のお名前が筆頭候補として記されていた。影武者たちにとっても、ここが踏ん張りどころであろう。ぜひ悲願を成就してもらいたいものだ。

 先輩は私の差し出した茶を啜った。
「そういや、レオとなに話してたんですか」
「お祭の話よ。うちももうすぐでしょう? 今年は間に合わないけれど、今後の参考にね。他国ではどんな風だったか訊きたかったの」
なんのお役にも立てなかったわけだが、と情けなく思った。
 帝国の旦那様の助言で見分を広める時間があれほどあったのに、なぜ祭くらいチラとでも見ておかなかったのか。いまさら悔やまれた。

「ねぇルカ、今年は行ってね。レオナルドも連れて」
「? なんです急に。部屋でのんびりする予定だったんですけど」
折れる気のない瞳をしていた。
「いいじゃない。行ってなにが楽しかったか教えて? お仕事としてお願いすれば行ってくれる?」
「それこそレオひとりで充分でしょうに」
な? と同意を求められ、反射的に頷くのを堪えた。
 先輩にはお世話になっているが、私の主人はジェシカ様である。

「……だって、あなたが今年でうちを出て行くとかいうから」
拗ねたようなお声だった。手首についたフリルをモゾモゾとつついていた。
「私が任されてからお祭も行ってくれなくなったでしょ。……サボっているように見えたかもしれないけど、私なりにお仕事はちゃんとしてきたのよ。一度くらい見てほしいと思ったの」
無理強いはしないけど……、と机を見つめ呟いたその姿に言い草に、先輩は渋い顔をして黙りこくってしまった。
 ふいにお顔を上げたジェシカ様は、平素通りの笑顔であった。
「でね、ひとりでお祭なんて寂しいでしょう? レオナルドは行ったことないって言うし、それなら一緒にどうかなって」
過保護じゃないですか? と先輩はようやく呆れた声を出した。
「そんなに心配しなくたって、こいつ知り合い結構いますからね? 花屋とか八百屋とか飯屋の人らとか」
「レオナルドの心配はしてないわ? こんなに愛想のいい子なんだもの」
「、俺に友達がいないって話まだ信じてたんですか??」
先輩が憮然とすると、ジェシカ様はコロコロと楽しげな笑い声を上げた。

「――当日が楽しみです。ジェシカ様は旦那様方と行かれるのですか?」
ふたりして目を丸めて私を見つめた。ぷす、と空気の抜ける音がした。ジェシカ様が肩を揺らしていた。
「私はお留守番よー、さすがに怒られちゃうわ!」
でもそう過ごせたらどんなに素敵でしょうね、と微笑むのを、ルカ先輩が肘をついて見ていた。
「……祭、気が向いたら見てきますよ」
「! 本当? 約束ね!」
気が向いたらって言ったんですよ俺は、と返していたが、ジェシカ様は聞こえてない振りをして、なんでも言ってみるものねー! と笑った。
「面は今も売ってますよね?」
「ええ、もちろん。欲しいの?」
見ると欲しくなるんですけど後が困るんですよね、と続き、私は瞳を瞬かせるばかりであった。
「見てないか? ギルの部屋にも幾つかあったろ、山羊の面」
木彫りのやつ、と言われ曖昧に返事をした。
 記憶の中のギル先輩の部屋は雑然としていて、思い返してもそのうちのどれが山羊の面にあたるのかわからなかった。

「そっか、レオナルドはよく知らないのだものね。豊穣の神様はね、」
 ジェシカ様が仰るには、この地で崇める豊穣の神は大きな山羊の姿をしているそうで、その大きさは頭部が雲を突き抜け地上からは見えないほどだそうである。大陸で秋の国土を一番最初に踏み耕し、そのおかげでどの国より作物が豊かに実るようになった、とされているらしい。
 話を伺うに夏のお国の厳密な唯一絶対的な宗教ではなく、春のお国でいう風の精霊のような、お伽話などで伝えられてきた土着型の信仰のようである。とはいえ荒々しい逸話ばかりの風の精霊とは、きっと似ても似つかぬ存在だろう。悪人を怒りに任せ浚い上げ、大陸に四散させるような話しか聞かなかったくらいだ。

「お祭にはね、ときどき本物の神様が遊びに来ると言われているの。
 屋台の甘い物を食べたり出し物を観たり、皆が踊っている輪に混ざったりね」
牧歌的な土地では、神もまた随分と平和なようである。
 ジェシカ様は上機嫌に言葉を続けた。
「でもバレたら皆にびっくりされちゃうし、周りに畏まられたら神様だって遊べなくなっちゃうでしょう? だから山羊のお面を被って隠してあげるの、本物の神様が見つからないようにしてあげるのよ」
 というのも、豊穣の神は俗世に疎いため人間にうまく化けられないそうである。
 祭で人の姿に紛しても尻尾が生えていたり、差し出す通貨も見たことのない貨幣だったりするそうだ。どうしても様子が皆と違ってしまうが、気づいていない振りをするのが決まりだそうだ。
 飴などを売り古銭を受け取ったり、踊る相手を務めてなにかの種子を受け取ったりすると、それを持つ限り一族の幸福が約束されると言われているらしい。
 おそらく、その神とやらは祭に迷い込んだ他国民のことを指していたのだろうな、と内心思う。

「うちの屋敷にもいただいた古銭があるのよ! ご先祖様が、まだ牛のミルクとかを商ってた頃に神様が買いにいらしたんですって」
「なるほど、興味深いお話です」
 旦那様やジェシカ様が偉ぶらないのも、そういった意識が強いからかもしれなかった。屋敷や領土がいまも平穏であるのは、その加護あってこそというわけだ。
 手紙に書く良い話題が入ったと思う。帝国におられるイリーディア様が聞いたら、どれほどお喜びになるだろう。イリーディア様は他国のこういった話がお好きなのだ。近々また、帝国の旦那様にお手紙をしたためようと心に決める。

「お祭にはギル先輩もお誘いしますよね」
「いや、あいつはたぶん飲み会の女の子と行くだろ」
知らなかった、親しくなっていたのか。確か郵便屋の女性である。
 しかし盗聴器の1件以来出ていないのに、一体どうやって親しくなったのかと思っていたら、ゴシップ紙のついでにって手紙持たされてな、とルカ先輩が自己申告してきた。
「ギルに彼女できたの? そうなのね!?」
その瞳は爛々と輝いており、よかった云々と仰りながら好奇心の方が勝っているのは明らかだった。
「うまくいってるなら誘っちゃ悪いんで、今回は声掛けませんけど」
そうね、それがいいと思う! と興奮したご様子で仰った。
「ねぇどんな子? どこの子? 私も知ってる子?」
「あいつが自分から言いだすまで、あんまり聞いてまわっちゃダメですよ」
もしかすると今日にでもフられるかもしれないじゃないですか、との先輩の言葉にキュッと口を噤み、しっかりと頷いた。

「ルカ先輩は、私と一緒でよろしいのですか?」
気を使ったつもりだったのだが、平素通りのお顔であった。
「なんだよ、別の方が都合いいか?」
「いえ、――先輩もどなたかからお誘いを受けていたら申し訳ないなと」
先にジェシカ様が首を振った。
「ないわよ。どうせ興味を持ってくれた女の子にも、適当なこと言ってガッカリさせてるんだわ」
見事な言い当てっぷりである。まるで先日の飲み会を見ていらしたかのようだ。

 あの日、先輩に興味を持った女性もいた。
 飲み終わりには「ルカくん、うちまで送ってよ」と自ら述べ先輩と去って行った。だが先輩が屋敷に帰ってきたのは早かったし、あのあと私はその女性にも会う機会があった(なにせ果物屋の娘さんである)が、
「ねぇ、ルカくんて彼女つくる気ないの? お茶も飲まずにさっさと帰っちゃったんだけど! なにしに来てたのあの人!」
と苦情をもらったのである。
「先日は傷心のギル先輩を元気づけるつもりでして、私もそのように申しつかり、」
しどろもどろになりながらフォローするも、鬼の形相に変わった。
「ッ出たわね男の友情!! それこっちには迷惑なやつだから!!」
私らを勝手に慰め要員にしないでくれる! と怒られてしまった。
 あまりの勢いに始終言い訳がましくなってしまったが、そのうち向こうの頭が冷えたのか「ごめんね、八つ当たりしちゃった。レオくんこれ好きだったよね? お詫び!」と旬の果物を与えられた。
 こちらのお国の人々は、怒りも悲しみも率直に口にするので驚かされることが多い。それになにより、謝罪を口にするのがとても早い。
 春のお国ではまっすぐな苦情なぞ聞いたこともなかったし、帝国でもこれほど素直な謝罪の言葉なんて聞いたことがなかった。これもお国柄だろうか、といただいた果実に舌鼓を打ちながらしみじみ思ったものだ。

 あの女性は、ルカ先輩を祭にも誘ったが断られたとやや落ち込んでいた。たぶん相手が誰であれ、最初から行く気がなかったのだろう。
「レオナルドは誰かいないの?」
お祭で会いたい子とか、と期待に満ちた目で問われ、やや悩んだ。
「実は、少々」
おふたりとも飛び上がった。
「はぁ!? はっや! いつの間に!?」
「そうなの!? どんな子? 私も知ってる子!?」
内緒です、と小首を傾げ笑って見せた。

 今日は素晴らしい話を聞けてよかった。
 多少不審な動きをした人間がいたとしても誰にも言及されないなんて、これ以上の好機はあるまい。
 私がその者に抱いているのは好意ではなく害意である。正確に言えば、害意を向けられたから憤怒に近い感情が沸いたのだ。

 胸に手を当て目を伏せた。
「その方を想うと夜は7時間しか眠れず、おかわりも1度しかできないのです」
「いつものレオじゃねぇか」
「いつもなら8時間は寝られていますし、おかわりも2度はしています」
よく太らないわね、とジェシカ様がしげしげと私の腹を見つめた。

***

『――春の民は最良の友である。
 その華やかな見目と老練した社交術に惑わされることなかれ。本来の彼らは人の話に耳を傾け、家族友人と寄り添って過ごすことを好む素朴な国民性である。
 他国の情報屋よりよほど勤勉かつ優秀な彼らは、あらゆる情報を渇望し常に収集を怠らない。なにか心配事があれば、いちばんに訪ねてみるといい。物珍しい話を土産にでもすれば、持ちうる伝手を惜しみなく活用し、瞬く間に君の不安を解消してくれることだろう。
 ちなみに野暮な返礼はおすすめしない。彼らは情報共有を無上の喜びとしているため、かえって気を悪くしてしまう。真摯に感謝を伝え、もしものときはその傍らで助けになりたいと告げるのがいいだろう。
 そうすれば、かけがえのない君との再会を心から楽しみにしてくれるはずだ。
(中略)
 ――されど、なにがあってもその愛を踏みにじってはならない。彼らが情報という名の暴力を有することを、決して忘れてはならない。
 その友は君以上に、君の弱点をとうに知り尽くしている。なにも裏があるわけではない。いつなんどきでも君を支えられるように、との行き過ぎた善意からだ。
 君が彼らを信じる限り、彼らはあらゆる手を尽くしその身を投げ打ってでも君を守り、君が死したのちもその名誉と尊厳を守ってくれることだろう。
 だがひとたび害意を向ければ、彼らは善良な友の皮をかなぐり捨て、身の程知らずな君の存在を全力で否定する冷徹に豹変する。
 その後の君が、想像を越える絶望を味わわされることになるのは言うまでもない』

 これは、大陸各地の人間を研究していたという酔狂な物好きの書いた『大陸異人録(または偏見録)』という文献の『第一章 春の民』にて綴られた一節である。
 大陸に住む人々の慣習や性質をまとめた書物で、百年以上前に書かれた代物だが現代でも大いに通ずる内容だ。研究者本人はその人生をかけ、大真面目に観察研究し満を持して発表したらしく、読んでみたら意外と興味深い(そして時折腹立たしい)ものであった。

 その物好きは、本を出版してすぐ行方知れずになってしまったという。そして本そのものも、4ヶ国語訳が同時発売されるほどの力の入れようだったにも関わらず大陸全土で早々に発禁となった。いまや幻の書である。
 なぜ発禁処分になったかと言えば、長年旅費を援助し全面協力して出版を楽しみにしていた各国の高貴な連中が、その内容を自らへの侮辱と受け取り憤怒したからである。彼らは本人どころか版元や印刷所にまで圧力をかけ、出版差し止めと販売済みの本の回収を迫った。
 腹を立てるなんて、内容が事実だと言っているようなものだろうにと呆れる。

 馬車を降りると、赤くなった空にはデタラメに千切れた雨雲が浮かんでいた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
ごく自然な微笑の横を黙って通り過ぎると、いつも通り後をついてきた。執事長も父への報告材料が欲しいのだろう。
「本日のお勉強会はいかがでございましたか」
「……いつも通りよ、下らない。人数が減ったくらいだわ」
それはようございました、と、どこか弾んだ声が追い掛けてきた。振り向き睨みつけると、食えぬ狸男の余裕の表情があった。
「どなたがご覧になられるかわかりません。そのようなお顔はなさいませんよう」
わかってるわと吐き捨て、開かれた自室のドアを通りベッドに倒れ伏した。激情に任せ、叫び出したい気持ちを懸命に堪えた。

 ~~あの魔物め!!

 随分と昔、春の第1王太子殿下の婚約者の最有力候補にまで登りつめたものの、辞退に至った子女がいた。理由は『候補としての重圧に耐えかね会話が困難になったため』である。
 社交が要の我が国において、話せないことは致命的であった。殿下の婚約者どころか、国内ではまともな縁談も望めない。微笑むだけの人形を、好きこのんで自らの配偶者に据える人間などいないのだから。

 華やかな政治的遊戯と勘違いされがちだが、春の王族の婚約者選定は地味だ。
 まず、貴族の家格から志願者を募り書類審査を行う。通ると婚約者候補のひとりとして認められ、屋敷はこれからの審査に備えあらゆる手を使い娘に学ばせていく。自他国の情勢はもちろん歌や楽器の芸術方面に至るまで、大陸津々浦々の知識と技術をまだ幼い娘の身体と脳に、土嚢のように隙間なく積み上げ叩き込んでゆくのだ。
 あとは流行最先端のドレスと宝飾品を誂えて、自慢の娘を美しくラッピングしてやればいい。その後の消耗戦を支えるのは、令嬢本人の努力と根性と忍耐だけだ。実に泥臭い戦いである。

 候補となった子女たちは、何年にも渡り勉強会という体で不定期に呼びだされ、完全非公開の場でお妃教育を施される。あらゆる専門家が教鞭をとり、予習済みの候補者たちをさらに躾けていくのだ。
 その場には専門家とは別に複数人の審査官が常に目を光らせており、候補者としての進退は専門家ではなく審査官が決める。
 そしてそのうち「貴女は休まれたほうがよいかもしれませんね」と強制的に退場させられてゆく。挫折を知らぬ令嬢たちにとって、それは自尊心を粉々に砕く屈辱的な宣告である。たいていは抗議のひとつも出来ず真っ青になって屋敷に帰り、震える声で自ら当主にその旨を報告する。
 理由に関わらず、退場した娘に次の勉強会の案内が届くことはない。すべての審査に通過してはじめて、王太子殿下に選ばれる資格を得られるのだ。

 それでも最初は穏やかなものだった。
 5~7歳の子供が集められ勉強会だお妃候補だなどと言われても、屋敷の厳しすぎる監視の目から離れた子供の集まりなんて、解き放たれた風に等しいものである。幼い頃の審査はその日習った成果を自分の順番で披露するくらいであったし、終われば皆で卓を囲みマナー確認と称したお茶会で会話を楽しんで帰るのが常であった。
 マナーを守り能力さえ示せば審査官から追い出されることはないし、なにより連れている専属侍女は己の絶対の味方である。政敵の娘と遊んでも告げ口をされる心配だってない。
 日々分刻みで予定が組まれ、無理やり椅子に縛り付けられていた子女たちにとって、本番のはずの勉強会のほうがずっと気楽だったのだ。
 もちろん会場にいる間は常に品評されていたが、幼い私たちは始まったばかりのその集まりの険しさをまだロクに理解しておらず、意地悪や厭味を言い合えるほど互いについても知らなかった。新しくできたたくさんの友人に会いに行くような気持ちで、いつも楽しみにしていたのだ。

 無論、主旨まで理解していなかったわけではない。
 ――殿下のお隣にはどなたが選ばれるかしら。あなたかしら、わたくしかしら。
 と、幼さゆえの無邪気なやりとりではしゃぐ程度のものだった。

 辞退したのは、その中に混ざる少々内気な子女であった。
 仮初の楽しさの影で自分のすべてを査定されるあの歪な集まりの中で、その娘は早くも有力候補のひとりと目されていた。なにせ彼女はあの帝国との国境を守る、国への貢献度の高い屋敷の娘だ。王太子妃となっても国を脅かす心配はないだろう。
 そしてなにより顔の造作が抜きんでて美しかった。可愛い可愛いと褒めそやされて育った子女たちが、黙って凝視する造りだった。6歳の時点で、あの娘を形容するに相応しいのは“可愛い”ではなく“美しい”だったのだ。
 他国への関心が強く、語学にいたっては大人顔負けに堪能。ひとり娘であることと、やや内気であることにさえ大幅に目を瞑れば、王太子妃になりうる資格を充分に有していた。

 3度目の勉強会だったろうか、王太子殿下が我々の集まりにお顔を出された。きっと周囲に強く促されたのだろう、誰が残るかわからない段階で会わされたって、と言外に仰りながらも挨拶にいらしたのだ。
 当時の殿下はまだ7つ。栗毛と菫色の瞳はこの国では凡庸であったが、だからこそふとした瞬間の立ち居振る舞いが、凛とした佇まいがかえって際立つようだった。
 それは紛れもない第1王位継承者の姿であった。お前もかくあれと、両親や教師にいつも言われる手本の実物を見た瞬間だった。
『殿下はご自分の菓子だって弟君に譲ってさしあげるような方なのだ。
 その隣に立たんとする人間が、はしたなく物をねだったり、聞き分けのないことを言うものではない』
と何度言われたか知れない。
 顔だけでも覚えていただこうと、候補者たちが粛々と列をなした。殿下は我々の表面をなぞるように見通し、首を捻った。
「? ロッテがいないな?」
庭園内を見渡すと、殿下の来訪に気付かぬ数人がまだ木陰で呑気に遊んでいた。

 ――王子様は、こんな綺麗な目をするのね。

 その横顔に目を奪われた驚きと、殿下の視線の先に気付いた途端に走った、あの胸の鈍い痛み。それが自分の初恋と失恋だったと知るのは、我々がもう少し歳を重ねてからだ。
 殿下の目には、おしゃべりをしながら花冠を作る親類シャルロッテ嬢と、その隣で頬を紅潮させ、夢中になって手元を覗き込む件の子女の姿があった。
「お友だちになれた記念に! 受け取ってくださる?」
 できあがった花冠を頭に乗せられ、その子は感激してさらに頬を染めた。熱の冷めやらぬ頬に手をあて、いつまでもはにかむその愛くるしい姿は人間離れしていた。
 あれは幼い花の精が人間の子を真似ているのだ、と告げられていたら、否定の言葉も吐かず誰もが納得しただろう。

 無欲で生真面目な第1王太子殿下の御心が、想定外の早さで奪われてしまった。
 しかし春の王族の婚約者決めはそんなに甘くない。殿下が選ぶのは、数々の審査に残った者の中からと決められている。審査が終わるまで、口を出す権利は国王陛下にすらない。国民の未来までも左右されることだ、王族であれ私情を挟むことは許されず傍観者に甘んじるしかないのである。
 他の候補者の家門は躍起になった。とんでもない差をつけられてしまったが、あの娘の傍にいれば殿下とお話をする切欠が得られるし審査中に足だって引っ張れる。
 あの子女は倒すべき政敵であると同時に、絶対に取り入らねばならない相手だと自分の娘を焚きつけたのだ。

 だがその子女は幾度かの勉強会とお茶会に来たきり、前述の理由を上げ候補の並びから姿を消した。候補者選定開始から、1年足らずのことであった。

 審査から辞退され、初恋の少女と婚約することが永遠に叶わなくなった殿下の落ち込みようはすさまじかった。
 なにせ無欲なことで有名な殿下が、初めて望んだ存在である。我々の勉強会へと伸ばす足もぱたりと止み、たまにいらしても「励む皆には感謝しかない」とお愛想の微笑みで仰るきりになった。
 私たちが憧れた殿下は、あれほど輝いた瞳をなさっていたはずなのに。
 だがどの屋敷も陰で胸を撫で下ろしたことだろう。殿下を射止めた娘が自ら去ってくれたのだ。同じ重圧を耐え忍ぶ候補たちは、志半ばで降りるしかなかった内気な友に対し、むしろ同情的であったかもしれない。

 問題はその後である。
 その子女は社交の場にほとんど姿を見せなくなった。ほとんど、だからたまには出ていたのだ。それは殿下の誕生祭であったり、稀に王室のパーティーであったり。なんにせよ、そのタイミングは常に完璧かつ最悪であった。
 我々の審査は10歳になる頃には概ね終わり、その頃にはすでに、残った候補の中から殿下が選ぶだけの段階となっていた。もともと殿下は生真面目な方だ。婚約も公務と理解されていたし、初恋に敗れても割り切れるつもりでいらした。
 きっと、姿さえ御覧にならなければ、無事お役目を果たされていたことだろう。
 あの娘はいつも見計らったかのように現れた。そして悪戯な風のごとく、断ち切るつもりでいた殿下の想いをいとも簡単に繋ぎ留め浚っていった。
 不定期に現れる初恋の少女に、それも年を重ねるごとに会うたび恐ろしさを覚えるほど美しくなってゆくその姿に、否応なく翻弄される姿はいっそいたわしかった。

 ただでさえ、手に入れられぬ花は鮮やかに映るのだ。
 候補の誰にも季節の挨拶くらいしか贈らぬものを、最低限しか返事も来ないのにその娘には季節の花を添え他国使者から聞いた珍しい話を綴り、そして必ず有事の際には頼るようにと誠心誠意書き連ねた手紙を送っていたそうである。
 されど注意をしようにも、当のあの娘がなにをしたという話でもない。
 来てくれと乞われた茶会に、心身の調子のいいときに現れて最低限の挨拶回りをして帰るだけである。積極的に咎められる落ち度がなにもない。
 なにを引き合いに出せばすでに辞退している娘をさらに下がらせられるのか、もはや誰にもわからなかったのだ。

 それでも最初の頃は、他の候補にも余裕があった。目障りには違いないが、殿下にどれだけ愛されようが、審査を下りた娘に選ばれる資格はないのだから。
 なにより皆それぞれ自分に自信がある。でなければ候補になんて臨まない。
 そのうち殿下もきっと心変わりをなさるだろう。これは停滞ではなく、挽回する絶好の機会である。ひとつふたつなにか珍しいことでも学び、他の候補者に差をつけるべきだ、と。
 彼女たちに“不運な事故”が次々と起こり始めたのもこの頃だった。

 様子がおかしくなってきたのは、その後だ。
 春貴族の子は、良家であればだいたい齢ひと桁のうちにお相手が内定する。遅くとも10代前半には決まり後半には成婚するものを、後半に入ってまだ決まらない。
 審査はもはや終わったも同然、残った令嬢の資質は粒揃いな上にすでに頭打ち。これ以上査定する項目もないのに、肝心の殿下があの娘に心を囚われたまま「このような気持ちのまま選ぶなんて不誠実だ」と頭を抱えているのだ。
 そうこうする間にも、想定外に年齢を重ねてゆく。知らぬ間に地獄へと足を踏み入れていた。

 ――我々は、いったい、いつまで頑張ればよいのか。

 自国男子は、殿下の婚約者候補に見合いの申し込みなんてとてもじゃないができない。彼らは早々に我々から見切りをつけ、他国より年若い娘を迎えだした。
 もう目を逸らしようがなかった。これ以上に時が経てば殿下に選ばれなかった場合のお相手が、まともな男子なぞ残っていないだろうという推測が、避けようのない現実になろうとしていた。他国ならまだいるのかもしれないが、とんでもない話だ。なぜなら国を離れる結婚は、春娘にとってすべからく屈辱の下方婚になるからである。
 お屋敷の名誉のため親の期待のため、ひとえに研鑽を重ねてきた令嬢たちは、ようやくひとつの可能性に思い至り喉の奥が震えるほど恐怖した。

 ……あの娘は、私たちに復讐しているのではないかしら。
 ひとつしかない席を奪い合い勝つために、候補の誰ひとり彼女を人間として見ていなかった。殿下に気に入られた、いけ好かないが仲良くしたほうが得する駒として笑顔で取り入った。彼女は否定の言葉を一度も吐かなかった。
 ほんの少し困ったような顔をして繊細な睫毛を伏せるきりだったから、いいように扱おうと、子供だったし強引なことだってしたかもしれない。でもお互い様ではないのか。少なくとも我々は皆そう思って徒党を組み、互いを利用しあってきた。

 ――あの娘は違ったのかしら。
 疑心暗鬼に陥った気の弱い候補は、過去の非礼を詫びた丁寧な謝罪文を送り、気の強い候補はさらに腕の立つ暗殺者を放った。
 それでも彼女の態度は変わらなかった。気まぐれのように殿下の前に現れ心を奪い、普段はどこにも姿を現さず沈黙を貫いた。
 殿下は「……そもそも私に王になる資質なぞあるのだろうか」と仰りはじめた。
 誰より聞き分けがよいとされた、高貴な少年の姿はもうどこにもなかった。人生で初めて望んだ相手を諦めきれず、かといって生来の真面目さから適当な相手を選ぶこともできず、前後不覚に陥ったことでついにご自分をも見失ってしまったのだ。
 我々はあの情報の少ない子女の動向に、すっかり振り回されるようになっていた。候補の席にしがみつけばしがみつくほど、年齢は年輪のように厚くなり、結婚適齢期が過ぎてゆく。そうこうしているうちにお相手の選択肢まで減っていく。

 考えてみれば、理由なぞひとつだったのかもしれない。
 これは我々と共に苦しみ、そして我々によって手折られたあの娘が用意した地獄のチキンレースなのではないだろうか。

 春貴族の子にとって、屋敷の恥となることはご法度である。
 なにより、蝶よ花よと育てられ(厳しすぎるほどの躾もされているが)こういうものだと自分の行く末も定められ、そしてそれに対し何の疑問も抱かず邁進してきた彼女たちにとって、当然こうあるべきという言外の常識から外れることは考えたこともない異常事態だった。
 こんなに努力してきたのに、こんなに優秀なのに屋敷の恥とされるだなんて冗談じゃない。それになによりそんなことになっては、どうしたらいいかわからない。

 いつまでも争わされる候補者たちの顔に、隠しきれぬ焦燥感が浮かびはじめた。そこに燃えたのは、諸悪の根源であるかの娘に対する明確な憎悪と殺意である。
 あの娘さえいなければ。せめてどなたかと結婚してくれれば殿下も諦めがつこうものを、なにをいつまでも澄ました顔で我々の前に中途半端に姿を現しているのだ。
 様々な屋敷から暗殺者が放たれたが、さすが悪名高い帝国との国境を守る屋敷である。亡き者とされたのは暗殺者たちの方であった。
 数え切れぬほどの屍の先で、かの娘は変わらず沈黙を貫いていた。

 ――きっと、わたくしたちを嘲笑っているのだわ。
 令嬢方のその暗い憶測に悲しそうな顔をしたのは、唯一手紙で当のその娘と親交が続くシャルロッテ嬢であった。
「そのようなことをお考えになる方ではないですわ」
お友だちではありませんか、と微笑んだ。

 このシャルロッテという娘がまた曲者で、幼いころから他の候補者とは一線を画していた。純粋な総合能力で見れば、辞退したあの娘なんて目じゃなかったろう。
 家柄は王の親類。振る舞いはもちろん、地頭がいいのか発想も柔軟で物覚えも異様にいい。歌えば花の蕾が綻ぶようで、楽器を爪弾かせれば小鳥も唄った。どんな難解なステップでも軽やかに踊りこなすその姿は、さしずめ風の妖精であろうか。
 性格は率直で朗らか、生まれに驕ったところもない。敵対勢力の令嬢であれ旧友に出会ったかのように気さくに話しかけ、警戒心の欠片もない顔を見せて笑う。誰とでも瞬く間に打ち解けてしまう、天性の人たらしだった。
 かの娘にしか眼中にない殿下すら、シャルロッテと話すと笑いだしてしまうのだ。ああいった人間に、凡人が抗うことは難しい。
 そんな彼女ですら殿下には望まれなかった。にも関わらず、シャルロッテは愚痴も悪口も言わなかった。

 しばらく後、国王陛下に促されたかの娘の父親は、ひとりしかいない愛娘を他国下位へと嫁がせた。あてつけのような下方婚であった。
 だがようやく、ようやく。風のような恐ろしい厄災は他国へ消えたのだ。これですべてが順調に流れるはずだ、と候補者たちが胸を撫で下ろしたのも束の間だった。
 厄災はそれで終わらなかった。風の精霊は所詮魔物であり、国外に出ようがその影響力は変わらなかったのである。

 候補者たちを怯えさせたのはここからであった。残ったすべての候補へ手紙が届いたのである。

『――嘆くことさえ許されず、悼むことすらあたわず。
 無限に続くと思われた悲しみと、暗く淀んだあの長く静かな日々の中、わたくしたちが祈り望んだことはどれほどの想いであったでしょう。
 いなくなった友人たちの無念がいま、お国に吹きすさぶ大きな風となり、とあるお屋敷の未来を彩るその花弁や新芽をすべて、命尽きるまでひとつずつ優しく奪い散らすことでしょう。
 その嘆きは誰にも聴こえず、その慟哭はどこにも響かず、救いを求める手はどなたからも握り返されることはない。あの日の無念を風に知らせてやりましょう。
 ――春の地に咲く、憐れな蟲毒の一輪よ。
 その声なき声が潰える日を、空を描くその手が朽ちる日を。凍てつく風の中でわたくしたちは、あの日からずっと、いまかいまかと待ち望んでいるのです』

 手紙は匿名で、検閲にもかけられていなかった。
 つまりは帝国のどこぞの軍家からである。それだけわかれば、犯人のあたりは充分つけられる。内容を鑑みるに、最初に辞退したあの令嬢からのただの恨み節に違いない。
 しかし本当に恐ろしいのはここからである。
 気の弱い幾人かはその内容に怯えてすぐに燃やし直後の茶会も不参加だったが、気の強い令嬢方は証拠として、そして皆に見せて笑い飛ばすためにその手紙を持参してきた。
 そこで、すべての候補者に同じ手紙が送られていた事実が明るみになり、見せあいをした令嬢たちはいよいよ戦慄する。

 最初に気づいたのは、いったい誰だったのだろう。
 内容は一字一句まったく同じであったが、使われた紙、インク、筆跡にいたるまですべてが異なっていたのである。

 同一人物による嫌がらせだと思っていたのに話が違ってくる。
 かつて最有力候補にまで上り詰めた、かの令嬢からの嫌がらせだと誰もが思ったしそれは概ね間違いなかった。だがどうも気持ち悪い。
 意味もなく筆跡からなにから変える必要がどこに? なにか意図があるのではないの? 隠された大きな悪意があるのなら、知らずに済ますなんて気持ちが悪い。
 知りたがりの国民性が、完全に裏目に出た。虚勢を張ろうとした手前、怖いだなんて言えない憐れな彼女たちは、すべての手紙を突き合わせ筆跡を改めてしまったのである。

 それぞれが、とうに死人となった令嬢たちの筆跡だった。

 悲鳴も上がらなかった。ただ震えていた。
 こんなことがあっていいわけがない。自分の屋敷が始末した令嬢から、こんな手紙が来たなんて恐ろしすぎてとても許容できない。
 とある令嬢がまっすぐに顔を上げた。対角にいた敵対勢力の令嬢をひたりと睨みつけこう言った。
「……――羨ましいですわ。その方からのお手紙を、わたくしがどれほど待ち望んだことか。もう二度と届かないと思っていた筆致を、また拝見できる日がくるとは夢にも思いませんでした。
 いまは風の精霊に感謝したい気分ですわ。かの方の無念を乗せて、貴女様に運んできたに違いありませんものね……?」
 言われた令嬢は真っ青になった。顔色を見て、怒りを露わにした自分に気がつき恥じたのか、途端に大人しくなった。そして打って変わって微笑みをたたえ、自分に届いた手紙と交換してもらえないかと言い出した。
 ――たとえ呪いの言葉でも、亡き友人から届いたと思えば慰みになりますから、と言って。

 堰を切ったかのように、そちらのお手紙を、貴女様のお手紙と、と声をあげ出した。改めて手紙を見なおすと、ご丁寧なことにそれぞれがかつての敵対勢力の娘に宛てて送られていた。
 忘れようとしてきた悲しみと、押し込めてきた怒りが突如として再燃したが、誰も何も言わなかった。社交の国に生まれ育った我々が、口を利きたくなくなっていたのである。
 穏やかな春の庭の陽光の下で、用意した茶はすっかり冷え切り、場は風もなく静まり返っていた。
 涙なんてひとしずくも零れなかった。泣き方なんてとうに忘れてしまっていた。ただ各々、腹の底に押し込めていた恨みつらみを燃やしながら黙りこくっていた。

「……。なぜかしら……?」
目を伏せポソリとこぼしたのは、シャルロッテ嬢であった。
 集まりの中でふたりだけ、まだ生きている人間の筆跡で手紙をもらった令嬢がいたのだ。秋のお国との国境にあるお屋敷の令嬢へは、最有力候補と名高いシャルロッテ嬢の筆跡で。そしてそのシャルロッテ嬢のもとには、他国へ嫁がれたイリーディア嬢の筆跡で、である。
 シャルロッテは戸惑いを隠せない顔をしていた。国境の屋敷への手紙も、もちろん身に覚えがないと言う。彼女とイリーディア嬢の屋敷は先祖の代から続く政治的戦友であり、本人たちも知己であった。なによりシャルロッテその人は、イリーディア嬢に対する意地悪な憶測を笑って否定していた唯一の人間だったのである。
「……これまでもこれからもずっとお友だちなのだと、わたくしは……」
あの方には違ったのかしら、と、ごく軽い感じで微笑んだ。それがなおのこと孤独に哀れに映った。

 その場にいた令嬢方は、イリーディアがシャルロッテを呪っているとまんまと思い込んだことだろう。それくらい、彼女の様子は自然で儚かった。
 屋敷の方針で応援しているとはいえ、イリーディアは殿下のお気に入りだったのだから、自分になりかわり最有力候補者に返り咲いたシャルロッテを妬んだに違いない、と。
 だが彼女をやっかんでいるにしたって、死人たちに連ねて手紙を偽造するなんて、あまりにも非情な真似である。自分は元より、応援すべき上位令嬢までも死人扱いしているのだ。
 勢力争いの最中である現実へと一気に引き戻された令嬢たちは、「いくらなんでもあんまりですわ」「お気を確かに持ってくださいね」「わたくしたちはこれからもお友だちです」などと、急に口数の少なくなったシャルロッテに慰めの言葉を寄せた。

 同じように心にもない言葉を口にしながら私は、(――やられた)と思った。
 本物のシャルロッテの暗殺死を知らなければ、彼女たちがそう思ってしまうのも当たり前だ。これこそがイリーディアの狙い、そしてこの偽物のシャルロッテの狙いだったのだ。

 そもそも、荒っぽい帝国との国境で育った娘が、婚約者の選定程度の重圧で負けるような神経の細い娘であるわけがない。
 おそらくあの娘は、偽物であれシャルロッテの名誉を守れれば、あとはどうでもよかったのだ。辞退した後も自ら恨まれるような行動をとっていたことも、どれほど醜聞にまみれても火消しをせず放っておいたのもそのためだ。彼女にとって標的となることはシャルロッテを庇えている証であり、むしろ賞賛の言葉に他ならなかったのだから。
 おまけにこんなギリギリで、シャルロッテに向かうはずだった敵意をまた自分ひとりに集中させた。反対に同情まで集めさせてしまった。敵ながら見事としか言いようがなかった。
 実際、こういう謀り事ができてしまうのが国境屋敷の娘なのだ。剣の腕こそ持たないが、彼女に人の心を操るなど容易い。
 それが、かつての友人たちならなおさら。

 辞退の意向を当主に伝える際になれば、令嬢たちはこぞってこう言うことだろう。
『――いまこそ屋敷を上げ、シャルロッテ様を応援いたしましょう。
 名は申せませんが、あの方はその後援であるかの有力屋敷の令嬢に陰ながら嫌がらせを受けておられます。ここまでこられたわたくしならば、そのような不届き者の執拗な魔の手から、お側で確かにお守りできましょう。
 ここで我が家が後押しすれば、無事に王太子妃となられた暁には一番の支援者として厚遇をお約束いただけるに違いありません』

 まさしく、あのふたりの思う壺である。

 各々思い出の筆致を探しだし交換し終えると、茶会は早々にお開きとなった。そしてそれぞれ、胸に手紙を抱いて、改めて暗鬱な気持ちで屋敷へと戻った。
 どれほど恐ろしくとも、我々はこれほど遠いところにまで来てしまった。
 すべて仕方のないことなのだと受け止め、儚くされた友人たちの屍を踏みしめ踏み越えてきた。だが、これまで失ったものを思うと吐き気がした。
 かつての友人にはもう二度と会えないのだ。そしてそれは間違いなく自分たちのせいなのである。どちらが殿下の隣に侍れるだろうと無邪気に話しあったあの日々は、いまの我々からはあまりにも遠い。

 この一件は、張りつめ続けていた候補令嬢の心を真っ二つに叩き折る、まさに会心の一撃であった。

 自責の念にかられた候補者たちは、突風に花弁を散らされたかのように我先にと辞退していった。当主に述べる建前だってできた。迷うことはない、後援者に逆恨みされている可哀想なシャルロッテを推せばいい。
 候補者の総人数はぐっと減り、なんとあれほどいたというのに片手に数えられる程度になった。
 ここまですべて、おそらく目論見通りなのだろう。

 あの娘はシャルロッテを王太子妃にするために、たくさんの邪魔な芽を一気に間引くために、息を殺し機会を伺っていたのだ。

 一応、私怨も大いにあるだろう。
 イリーディアはシャルロッテ殺しの犯人を捜していた。手紙を読めばわかる。本来イリーディアは、このような露骨な言葉選びをする娘ではない。このような隙を見せる人間ではないのだ。
 この手紙は、候補者の中に残っているであろうシャルロッテ殺しの主犯に宛てたもので間違いない。
 王族の親類に手をかけるような常軌を逸した屋敷なら、その子女が適齢期を越えてしまったくらいで辞退などさせるわけがない。たとえ脅しに等しい恐ろしい呪いの手紙が届いたとしても、その娘が泣いて嫌がったとしても候補者として残らせ続けることが肌感覚でわかっている。

 ――あの娘はずっと怒っているのだ。
 この間およそ10余年、自らの側仕えに対しても徹底的に口を噤んでいたようである。シャルロッテがいなくなった日から、まるでひとりだけ時間が止められてしまったように。

 手を伸ばし、引き出しから取り出した。手元に残ったのはシャルロッテの文字だった。
 残念ながら誰も交換したがらなかったので、持参した手紙はそのまま持って帰っていたのだ。確認したくもないが、この拙さはきっと7つの頃の筆跡だろう。
 今頃イリーディアは、まだ残る候補者たちのリストを改めて入手し直し、例のお優しい微笑みで我が家を破滅させる方法をじっくりと練っているに違いない。
 いつの間にか手に力が篭っており、ぐしゃりと音を立てて手紙に皺がいった。持っていたものを差し出した。
「燃やして頂戴」
「かしこまりました」
笑顔を張り付けた執事が寄ってきて、恭しく受け取るのをひどく冷たい気持ちで見た。

 ――ねぇシャルロッテ、貴女は気づいていたかしら。
 貴女の隣で微笑むだけだったあの娘が、かつての友人たちの心の扉を平気で暴くような野蛮であったことを。そしてそこに眠る数少ない美しい思い出を容赦なく叩き壊し、その破片で内側から突き刺し抉るような非情であったことを。
 あの娘がここまで無慈悲な魔物になりえたことを、貴女は知っていたかしら。
 わたくしは、知りたくなかったわ。

続.

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