可惜夜サイダー
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視界の先、窓の外はしんしんと雪が降り続いていた。
年を迎える1月直前、今日はいわゆる大晦日だ。
元旦生まれの古いばあさまの白寿のお祝いにと、久方ぶりに親族全員が集いついでに新年も祝う予定であったが、この古い大広間の壁を彩る布は紅白ではなく、急遽引っ張り出してきた黒白の喪の色であった。
黒と白の縦ストライプ、そして中庭の松に降り積もる雪が視界をモノクロに彩り、予定していた晴れの日がもう来ないことを静かに告げていた。
昨日30日、祝われる立場にあった当の本人が息を引き取ったからであった。
急なこともあり注文していたオードブルはそのままで、ただ荷造りされていたおばさん連中の和服は喪服へ取り替えられ、そしておじさん連中のネクタイも白から黒へと切り替えられた。
忙しない年の瀬ではあれど、不思議と文句を言う者もいなかった。
どの顔にもどこか楽しげな色が伺える。それが長い長い読経が終わった開放感からくるものなのか、オードブルが思いのほか旨かったからなのか、俺には判断がつかない。
葬式が終わったばかりというのに、今日のこの会がここまでわいわいとしているのは、きっと死んだばあさまが数えで99という大往生を遂げたことも理由の一つに挙げられるだろう。
足腰が弱くなり外出することはめっきり減ったものの、自分のことは自分でしたいと身の回りの最低限のことは極力自分でこなしていたという。
耳元で声を張られても聞こえぬほどの耳の遠さをほこっており、後半はあまり会話ができていなかったように思う。常に微笑んでいたのは、ばあさまなりの周りへの気遣いだったのかな、と今となっては思う。
されど耳が遠いわりに、誰かの悪口や陰口の類はどんなに距離があっても聞きつける地獄耳で、平素の柔和さはどこへやら、
「お前は他人様のことをとやかく言えるような出来た人間か?」
……と鬼の形相で叱ってくるような人だった。
地獄耳のその人は、一昨日平素通り午後9時には床につき、だが誰より早く起きるはずなのに朝8時を過ぎても一向に起きてこなかった。同居していた大叔母が珍しく思い起こしに行くと、布団の中で文字通り眠るように亡くなっていたのだ。
隣の布団で眠っていた曾祖父ですら、その別れに気づかなかったという。
極力誰にも世話を掛けたくないと述べていたその言葉通り、静かな旅立ちであった。
俺にとって ひいばあさんにあたる、今は亡き本日の主役の死因は老衰だ。
平素なら酔っ払いのこの喧騒を煩わしく思うところだが、亡き曾祖母の豊かな生き様によく合っている。そう思うと、こんな葬式も悪くない気がした。
「じっさま、お疲れさまでした」
寄って行った伯父連中か、徳利片手にその横へと座った。曾祖父は、叔父たちにお猪口を促されるのをやんわりと手で断った。
じっさまは大変に酒好きな人であるが、伴侶を見送ったいまは、しばらく酔わずにいたかったのかもしれない。
亡き曾祖母の夫であり喪主である曾祖父は、外から差し込んだ光を受け、どこかありがたい仏様のようになっていた。
そのまま、天に昇っていってしまいそうに見えた自分を反省する。縁起でもない。
飲まないらしいとわかった絡み酒の伯父たちが早々に離れたので、俺は席を立ちその横へと座った。
「じっさま。ご無沙汰してます」
「おん? ヤマト、元気かー」
おかげさまで、と言いつつ自分の持っていた瓶を掲げてサイダーのラベルを見せると、嬉しそうにコップを手に取りこちらへと傾けた。
シュワシュワと細かな音を立てたサイダーを煽ると、その老いた喉仏が上下した。んー、うまいねぇ、とじっさまは笑った。
「じっさまは今日で88になるんでしたっけ」
元旦生まれの人の夫が、なんと大晦日生まれである。おめでとうを言いかけて、配偶者を亡くした人にその言葉はどうなんだ……と思ってやめた。
じっさまは目を細めた。皺に紛れ細くなった目がいっそう細くなり、心の底まで見透かされているような気になった。
「そうだよ、88だ。よう覚えとったなぁ」
「だってもともと、ばっさまの白寿とじっさまの米寿を一緒に祝うって話だったでしょう」
皆すっかり葬式モードで、じっさまも自分のことを色々言うような人じゃないので、いつの間にかさらっと流されてしまっていた。
案の定、気にしてなさそうに笑った。
「はっは! いいさ。ワシなんざ、ばっさまのオマケだもの」
あまりにも晴れやかに笑うので、つられて笑ってしまった。
「あっぱれでしたね」
「ん、おまけにこんなに見事な逝き方だ。見習いたいもんだ」
確かに。寝ているうちにあの世に逝ってしまったのだから、安らかにもほどがある。お手本にしたいくらいだ。
「……じっさまも、長生きしてくれな」
ばっさまくらい元気にしとってくれたら嬉しいです、と言った。
本心であった。
じっさまばっさまには、可愛がってもらったのだ。いや、俺だけの話ではない。二人は親族の誰にでも優しかった。
「お前は昔っから優しい子だな。可愛いもんだ」
「可愛いかねぇ、もう30近いんです」
俺の返答にやや目を丸くしつつも、口を開いた。
「そらワシもこんな爺になるわけだ」
笑ってしまう。
遠方から、お袋が俺を呼ぶ声がした。
ちらりとじっさまを見ると頷かれたので、俺は素直に立ち上がった。
呼ばれた先では、皿を片付けていたお袋が見るからにイラついていた。台所の人手が明らかに減っていたようなので仕方ない。
要領のいい奴はそっと抜けていくのだが、お袋はそのタイミングが読めず最後まで働きづめになってしまうタイプであった。
「あんたほんとにじっさまが好きね」
ちなみにこれは嫌味である。なんでさっさと手伝いに来ないの!? という言外のあれである。
ふと思い至った。
「じっさまは結婚早かったんだなー」
お袋は訝しげな顔をした。
「だって俺が20後半でお袋らが50代で、ばあちゃんらが70代。じっさま88で、ばっさま99」
あれ、と思う。じっさまと祖母の年齢が合わない。
俺の顔を見て悟ったのか、お袋が口を開いた。
「確かばっさまは再婚だったはずよ。おばあちゃんは前の旦那さんとの子供」
へぇ、知らなかった。となると、じっさまは、まるで血の繋がりのない俺や親父らを可愛がってくれているのか。
「じっさまは19で結婚したって聞いたよ」
情報通のお袋の発言に、口からひぇぇと声が出た。
自分の10代を思い返すと、結婚だなんてとても想像がつかない。この年齢で両親からせっつかれてもピンと来ないのに。
「ばっさまが11個上なんだもの、たぶんそれででしょ」
そうか、と思う。じっさまが19なら、ばっさまは30。当時なら難しいラインだったのかもしれない。
最初の旦那さんは戦争で、と続き、あぁ……と小さく返事をした。
なにも知らないなりに、色々あったんだなということだけはその一言でしっかりわかった。
「というか、あんたはそんなこと気にしてる場合?」
俺へのお袋のその厳しい声色で、続く言葉の想像がついた。
「さっさと仕事探しなさいよ、急に辞めてくるんだもの」
「あら、ヤマトちゃん仕事辞めたの? いいとこにお勤めだったのに」
勿体ないわねー、そうでしょー、と叔母と母に言われ、俺は曖昧に笑い頭を掻いた。茶番である。
「さっさと再就職して結婚してよね?」
「はいはい、わかってるよ」
「ほんとにわかってるんでしょうね?!」
「はいはい、すんません心配かけて」
あぁ、面倒くさい。顔に出ていたのか、なおもお袋が口を開こうとした。
「ヤマトォー。さっきのなんだったかな、ちょっと持ってきてくれんか」
「すぐ行くよー」
さっと席を立ち、台所へと向かう。冷蔵庫からあえてキンキンになった瓶を取り出し、新しく自分用のグラスも持ち、じっさまのもとへ向かった。
「ありがとうじっさま、助かりました」
じっさまは気弱に笑った。怒られているのを見るのが苦手な人なのである。
いつも、いつの間にやら台所から人が減っていき、だいたい真面目な大伯母とお袋が残されてしまう。
大伯母の手前お袋は抜けられないし、かといって目上ばかりの宴会で誰かに手伝ってくださいとも言えない。だがムカつくのはめちゃくちゃムカつくらしかった。
そして俺を呼びつけいくらか仕事をさせたのち、まったく関係ないことで急にあれこれと当てこすりをしだすのである。
実際に非のある部分を急についてくるから、こちらはへぇこら謝るほかなくなるという。
まぁ、俺は体のいい八つ当たり相手なのだ。
子供の頃からずっとそうだったので、正直なところ親戚の集まりが昔から大嫌いだった。
ただ、だいたいじっさまかばっさまが、毎度ちょっとした用事をつくって呼びつけてくれて、嫌な感じになった誰かから引き剥がしてくれるのだった。
俺はいつも、じっさまとばっさまに会いに来ていたのだ。
いつかじっさままで亡くなったら、こんな集まりになんて二度と来ないだろう。用を済ましたらとっとと帰る気がする。
「あのなぁヤマト」
「うん? なんですか」
「88年生きてきて思ったのはな、ちょっと働きすぎたってことだ。15から55までの40年。人生の約半分だ」
もっと楽しく暮らせたかもしれないな、と言った。
「……。そっか」
とりあえず頷いた。
「人生は長いんだ。なにもそんな早くから焦らんでいい。
お前だってきっと、ばっさまくらい元気に長生きするんだから。休み休みでいいのさ」
「じっさま」
「ん?」
改めてお誕生日おめでとうございます、とサイダーを注ぐと、照れくさそうにグラスを掲げた。
Fin.