日常に花栞

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「ダイチくん、これ」

 掲げられた冊子を見て、やっぱダメですかね……と情けない声が出た。ダメだね、と冷静な声が返ってきた。
「これじゃただの日記だ。業務日誌なんだから、業務の記録をしてくれないと」
最もな指摘であった。
「苦手なんですよね……」
「だろうね。読めばわかる」
ほげぇ、とまた情けない声が漏れ出た。

 山奥にある動物の保護団体にて、三か月の試用期間を経て先日無事本採用となったわけだが、その試用期間中にも注意を受けていた通り、業務日誌や報告を書くのがとにかく苦手なのである。
 そうじゃなくとも、毎日毎日同じことの繰り返しなのだ。そうそう書くことなんてない。
「そんなに難しく考えなくていいと思うけど」
「難しいですよ、先生はどんな風に書いてんですか……」
僕? と少し悩みつつ、先生は口を開いた。

「僕以外の人が、その日の業務を代わりに請け負った時に読んでわかるように、少なくとも困らないようにと思って書いてる」

「めっちゃくちゃまっとうな答え!」
思わず声に出た。
「というか、ダイチくんは人に読まれるっていう自意識が強いわりに、書かなきゃいけないようなことがスッポリ抜けてたりするね」
素直な疑問口調で問われたのがなおのこと刺さった。
「……いや、なんていうか……。いざ書くってなると、頭から抜け落ちちゃうんですよね……」
「まぁ……、そのうち慣れるだろう」
だといいんですけど、と項垂れた。

「おはようございまーす!」
顔を見合わせた。とりあえず返事をしつつ、俺は席を立った。先生は訳あって人嫌いなので、極力人とのやり取りくらいは進んで出るようにしているのだ。
 玄関扉を開くと、俺と同じくらいの年の女の子が帽子を脱いでペコリと頭を下げた。
「おはようございます! 突然伺ってすみません。
 こちらのお山は私有地だと聞いて、登っていいか許可を仰ぎに来ました。所有者さんはあなたですか?」
 わりとガチめな恰好をした山ガールだった。最近売られているカラフルなレディース用の登山服を着て、人のよさそうな笑顔を浮かべていた。

 朝からこんな山奥で人間の女子に会うと思っていなかった俺は驚愕し、少々お待ちください、と急ぎ振り向いて虚空へと声を張った。
「せ、せんせぇー!? なんか、女の子が! どうしよう、私有地なんですってここ! こんなもん建てちゃったりしてるけど大丈」
「ここはうちの山だよ。言ってなかったっけ」
はぃぃ?? と声が出た。
「この山、僕が買った所だから一応ここは僕の山だね。普通に考えて、人の山に建物なんか建てて暮らさないだろ……」
そう言いながら面倒くさそうに2階から降りてくると、俺の後ろにいたカラフルな山ガールを見て口を開いた。

「……登山者さん? 登るのも下るのもご自由にどうぞ。
 ただし山の中でのあらゆる事柄は、自己責任でお願いします。飯盒炊爨もキノコの拾い食いも好きにしてくれていいけど、火の始末は気を付けてゴミは必ず持ち帰って。もしその辺になにかしらを捨てるようなら、あなたごと埋めます」
山ガールは意外と肝が据わっているのか、すっかり髭が伸び熊みたいになった先生の様相にもその不穏な発言にもビクともせず、
「わかりました! ありがとうございます、では遠慮なくお邪魔します」
と頭を下げ、また獣道へと戻っていった。
 山なんかに暮らしているわりに、アウトドア派とは言い難い俺と先生は、その小柄ながら迷いなく去って行った頼もしい背中をただただ黙ってしばらく見つめた。
「好き好んで山に登るような変わった人が実在するんだね」
「そうですね……」
(その山に住んでる先生が言うことじゃないと思います)と思った。

 その日の夕方、彼女は律儀にもまたここに訪れた。
「ありがとうございました、とても素敵な山でした! また来たいくらい楽しかったです」
と満足げな顔をして笑った。
「私有地だけど、入るなって看板も掲げてないしね。気に入ったなら問題のない範囲でどうぞ」
と人嫌いの先生が珍しく直接返事をした。
 のちに先生は「山以外に微塵も興味がなさそうなところがいいと思った。彼らも喜んでたしね」と、去って行った彼女を惜しむ猫たちの背中を見ながら言った。

 山ガールはサツキと名乗り、その後も休日になるたびちょくちょく訪れた。
 一人で登山ルックをバッチリキメて、必ずここへ立ち寄り先生に許可を取って獣道へと分け行り、帰りも必ず立ち寄り礼を言った。
 そのうち、彼女が来ることに猫も俺も先生もだいぶ慣れてきて、たまに庭で一緒にコーヒーを啜ったりするようになった。

 ある日、サツキがいつものごとくここに許可をもらいにやってきて、瞬く間にざぁっと音を立てて雨が降りだした。
 雨宿りをしつつ、彼女は窓から空を見上げ「今日明日は登るのやめとく、土が緩んで危なそうだし、今日は雷も来そうだし」んー、残念! と言った。
 残念だと言いながら、雨なら雨でやることがあるらしく、コーヒーを飲みながら彼女はノートになにか書き始めた。

 ──手帳?
 視線に気づいたのか、へらっと笑って掲げた。
「一応、日記みたいなもの。登った山の記録とかも兼ねてて、なんでも書くの」
「へぇー、意外とマメなんだ」
意外とは余計でしょ、と笑った。晴れてようが雨だろうが、サツキはなぜかいつも楽しそうだった。よっぽど山が好きなのだろう。

 見る? と言われ、そのフランクさに俺は面食らった。
 業務日誌を見られるのも嫌な俺からすれば、日記なんてものを見せてくる人間がいるとは想像もしていなかった。対面に座り、お言葉に甘えてその赤い手帳を受け取った。
 日記というか、絵日記? だった。変わった植物があればスケッチし、動物の足跡があったとメモがされ、とにかくあれやこれやと書かれていた。素直に、読み物として面白いと思った。
「……サッちゃんはすごいな、俺こういうの全然書けないんだよなー」
「そうなの?」
「うん、日記なんて3日坊主もいいとこだし。業務日誌すら苦手で困ってるくらいで」
へぇー、と不思議そうな声を出した。
「なんかコツとかある? うまく書くコツみたいなさ」
「んー……、うまくって言われてもなぁ。ただの日記だし、そんなの考えたことないよ」
なにか心がけてることとか! とダメもとで問い詰めると、悩みつつ口を開いた。

「これはさ。……なんていうか、自分で読み返すために書いてるんじゃないの。縁起でもないんだけど、もし私が遭難しちゃったりしたときとかにさ」
「ほんとに縁起でもないな」
だから先に言ったんじゃない、とサツキはすっかり冷めたコーヒーを啜った。
 机に飛び乗り、なにをしているのか覗きに来た猫の背を優しく撫ぜた。

「もしなにかあって、そのまま生きて帰れなかったとするでしょ」
当たり前のこととして、彼女は最悪の事態も想定しているらしかった。
「そうしたら、家族はきっと悲しいだろうし、山になんて行かせなきゃよかったとか止めたらよかったとか思っちゃうかもしれない。
 それがたとえ、私が周りの忠告を聞かなくて起きた結果だったとしても」
うん、と相槌を打った。

「私ね、日記には極力、山に入ったあとの楽しいことしか書かないようにしてるの。
 読んでもらった人になら、どれだけ私が山を好きで、どれだけ色んな景色を見て、それをどれだけ楽しんでたか、少しはわかってもらえると思うんだよね。
 なにかあったとしても、それは起こるべくして起こった仕方のないことで、少なくとも私本人は覚悟して山に行ってたんだなって、親も納得してくれるんじゃないかって」
「なるほどなぁ……」
ありきたりな言葉が口から出て行った。俺は言葉を扱うのが苦手なのだ。

 サツキはちらりとこちらを見た。
「業務日誌、苦手なんだったらいまちょっと書いちゃえば?」
「えぇ? なんで?」
「だって一人だと書きあぐねるんでしょ? 話しながらだったら、何か思い出して書けるかもしれないよ」

 案外名案かも、と思った。
「先生ー」
「聞こえてた。好きにどうぞ」
「さすが話がはえぇや」
あざまーす! と返事をし、業務日誌を取ってきてまた対面に座って広げた。

 ぃよし! と机に向き直ると、ハァどっこいしょと言わんばかりの勢いで、開いた日誌に猫が尻をグッと乗せてきた。
 対面にいたサツキの肩が震えた。
「それじゃ書けないねぇ……?」
「……いや書くよ、書くって決めたんだ。どいてくれぇ、いまから大事な仕事をするんだぞ」
抱えあげて床に下ろすも、すぐさま机上に飛び乗ってきて今度は綺麗な香箱座りになった。ふかふかの毛で、ついに日誌が見えなくなった。

「っフフ、……前から思ってたけど、ここの子たちにめちゃくちゃ好かれてるね」
「好かれてるっていうか、おちょくられるんだよな……。先生にはめったにこんなことしないのになぁ……」
白足袋のその猫はどこ吹く風で、微動だにしなかった。聞こえてないフリをされている。思わずその腹に顔をうずめた。
「邪魔するなら代わりに書いてくれよぉ……!」
「猫に無茶言うんじゃないよ」
うわっと声が出た。
「いやいや、先生! 書く気満々だったんですよ? でも見てくださいよこれ、この綺麗な香箱座りを崩すなんて、」
先生はヒョイと手を伸ばし、猫を軽く抱き上げた。
 抗議の声を上げる白足袋の猫を、それは優しく撫ぜて宥めた。

「仕事の邪魔しちゃいけないよ。
 これからもダイチくんで遊びたいなら、なおさらいい子にしてなきゃ」

 サツキがまた肩を揺らした。
「……先生、それを言うなら『ダイチくん”で”』じゃなくて『ダイチくん”と”』でしょ……」

Fin.

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