Daydream Believer

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***

 これほどまでに嬉しそうな顔をするなんて、共に住んで初めてのことではなかろうか。

「兄やん! いらっしゃい、久しぶり!」
 予期せぬ彼女の嬉しげな声を耳にし、思わず俺は体を入れ替え、襖へと匍匐前進した。薄く引いたその隙間から見やると、彼女が玄関の戸口で、見慣れぬ男の首に掻きついているのが見えて息を呑んだ。
 上述の通り、彼女のその熱烈な歓迎は”兄”と呼ばれた男へと向けられたもので相違なく、薄く日に焼けた畳の上で腹這い状態となっている俺へと向けられたものではない。

 ――血を分けた兄妹なら、なにもおかしなことはない。
 内心、言い聞かせている自分がいた。己が多少の焼きもち妬きである自覚はあった。だが、無駄に妬いてもいいことなんてないのは、これまでの人生で身をもって学習してきている。もはや経験則というやつだった。

 だいたい、まどかに”……またそんなこと気にしてたの?”と、溜め息交じりに呆れられるのも面白くない。しかしそれも致しかたあるまい。まどかに抱きつかれたその人は、いかにもモテますと云わんばかりの爽やかな風体の男で、なんなら彼女とそう年も違わないような印象すら受けたのだから。

 ……。でもまどかは兄と呼んでたじゃないか。
 気を取り直し、心の靄を振り払えぬ自分に言い聞かす。彼女とは結婚前提で同棲中なんだから、気後れしそうな爽やかな男であろうと、ソツなく挨拶をこなさなければなるまい。
 起き上がり、急ぎ玄関へと向かう。己の着ていたシャツに妙な皺が寄っているのに気が付き、慌てて直しつつ内心舌打ちをした。
 ……朝っぱらから寝っ転がってTVなんぞ見るんじゃなかった。

 ズボンで手の汗を拭いつつ、男と目が合ったので一礼した。
「初めまして、瀬崎と申します。
 ご挨拶が遅れ申し訳ありません。まどかさんにはいつもお世話になっております」
 男は、腕に取り付き離れないまどかになされるがままになりながら、にこりと淀みなく笑ってこちらへと右手を伸ばした。ごく自然な動作に、俺も素直に右手を差し出していた。
 その掌は湿度も感じさせずひやりとしていて、事前に拭ったとはいえ、俺の手の汗の名残や身の汗すらスッと引いていくような不思議な心地がした。

「こちらこそ、妹がお世話になっております。お休みのところ、突然の訪問で申し訳ない」
 彼女に似た人懐こそうな面差しに、品の良い笑顔。そして仕立ての良い服、おろしたてみたいに曇りなく磨かれた革靴。
 安物のシャツに皺を寄せた自身のみっともない様相なぞ、もはや顧みたくもない。
 
 ……――ああ、もう、本当にその通りですよ。前もって連絡くらい入れておいてくれりゃあ、俺だってもうちょっとマシなカッコをしといたのにさ。

 心の中の俺が、玄関の中心でヤケクソに叫んだ。

***

「ね、兄やんお茶でいい? キンキンに冷えた麦茶があるんだよ」
「お茶かぁ、久しぶりだなぁ」
視界の先で、まどかは至極嬉しそうに肯いた。

 その和やかな様子に、俺は察した。
 今朝に限っては煮出した茶を迷わず冷蔵庫に突っ込んだので、どういった風の吹き回しかと秘かに疑問に思っていたのだ。普段、彼女は”冷たい茶は身体によくないから”と言って、頑として飲まないのだから。

 ――まどかさんよ。
 さてはお前、お兄さんの訪問を知ってて俺に黙っていたな?

「あ、一応、熱いのも淹れられるけど?」
「せっかくだし冷たいほうを貰おうかな」
今日はなんだか暑そうだしね、とその兄は微笑んだ。

 軽薄さのない笑顔をみて、感心する。
 これは目上のおっさんに信頼されるタイプの男だろう。モテそうなだけでなく、おっさんからも気に入られそうとなれば、向かうところ敵なしのように思えた。
 落ち着いた笑顔を見せられる人間というのは、俺たちが思っているよりずっとずっと少ないのだ。だいたいの人間は、その笑顔に軽薄さが滲む。だから、目上に嫌われる。されどこの兄にはそれがなかった。羨ましい限りである。

「……私も久しぶりに冷たいの飲もうかなぁ、兄やんも飲むんだもんね」
誰に言うでもない一言を呟き、上機嫌のまま俺のことも見やった。
「瀬崎くんは? 冷たいのでいい?」
「あー……、俺はいいや。あとでもらうよ」
首を振って応えると、彼女は気にしてなさそうに、わかったと笑った。
 まどかと違い、こちとら夏は断然冷たい派なのでいつもなら即答で冷たい茶を選ぶところだったが、俺にしては珍しくなんだかあまり気乗りしなかった。むしろ普段より喉も乾いているような気がしたし、ここ数日の暑さは耐え難いほどだったが、今日はどちらかというと空気が肌寒いような気がしたのだ。それとも、同棲数か月にしてまどかに感化され、俺の体も冷たい物を受け付けなくなってきただけなのかもしれない。
 うん、たまには冷たいのもいいよね、と一人で言い訳をしながら台所へ向かう彼女の後ろ姿を、その兄は優しい目をして見送った。

 ――さて、席をはずされてしまった。二人になってしまうと何を話せばいいやら。

「あの、……瀬崎さんとおっしゃいましたか」
「? あ、はい」
 気遣ってか、沈黙が重くなる前に向こうが口を開いてくれた。いい男は気まで回るんだなぁ、と静かに感心する。ぼやぼやしてないで俺が話を振るのがベストだったんだろうが。しくじったな。

「……急にこんなことを述べるのも失礼なのかもしれませんが。まどかを、どうぞ宜しくお願いします。少々奔放なところもあるのですが、根はしっかりしていますし。……あ! あの子は出過ぎたことを口にしてないですか?」
「いえ、出過ぎるだなんてことは全く! いつも助けられてばかりなんです、本当に。僕がうっかりしすぎているだけなのかもしれませんが」
 その兄は少し安心したように笑った。
「……まどかは昔からしっかりしすぎていましてね、”兄やん、ハンカチはちゃんと持ったの?”なんてよく言われたものです」
 苦笑する。いかにも云いそうだった。

 そう、まどかはとてもしっかりしている。
 金銭感覚はもとより、家にあるシャツやパンツの数は俺の分までほぼ正確に把握しており、とある日買い物に出かけた際「あのGパン、そろそろ買い替え時じゃない? あの感じじゃ2年以上着てるでしょう?」などと言い出した時は驚愕したものだった。ちなみに俺はそれを2年以上着たか否かはおろか、いつ買ったものかすらてんで覚えていなかった。
 
 昨日食べた飯どころか、まどかは恐らくこの一週間の三食全ての献立だってソラで云えるはずだ。栄養云々、いつも考えてくれているのだから。”食えればヨシ、うまければなおヨシ”な俺には到底できぬ芸当だったし、彼女ができるなら俺もできるようになる必要なんてないだろう、と最近はその努力すら放棄している。そしてまどかも俺にそんなことは求めていない。

 これらは同棲を始めてから知ったことだった。
 誰だって、今まで見聞きして気に入ったものを取り入れたルールで生きているものだと思うが、まどかは特にそれが顕著だった。彼女のルールの一つに、身体を冷やすのはよくない、というものがあった。冷たい麦茶しかり、エアコンの風しかり、別に寒がりな訳でもないのにそんなに気にするのはなぜかと問うても”急に体を冷やすのはよくないから”の一言だった。彼女が言うには、必要以上に冷やすと人間は不細工になるんだそうだ。
 よく話題に上がる、まどかご自慢の美人な友人が冷たいものを好まないそうだから、それに色濃く影響を受けて誇大に受け取ったのではないかと俺は勝手に推測している。

 ――まどか曰く。
 ……というより、もしかしなくとも、まどかの友人曰く、か。
 過ごし方によっては、飲み物で冷やさなくても躰に涼は取れるんだそうだ。
 
「もうずいぶん経つのに、私のことまでいまだに気遣ってくれますでしょう。今日も冷たい茶の用意をしてるなんて、普段は飲まないのに」
「? そうですね」
 まどかのルールを、お兄さんも承知しているようだった。適当な相槌を打つ俺に、にこりと笑いかけてきた。よく笑う人だ、と思う。
「まさかこんなに自然な感じで迎え入れてもらえるなんて、本当は思ってなかったんですよ。怖がられてしまうんじゃないかとね」
「怖がるだなんて、こんなに優しそうな方に対してそんな……」
彼は坐したまま、にこにこと笑っていたが、俺の顔に疑問が浮かんでいたのか、お兄さんは眉根をやや寄せてなにか思案顔になった。

「……もしやと思いますが。瀬崎さん、まどかから何も聞いていませんか」
「? お兄さんがいらしたことについてですか?」
 彼は思案顔のまま固まった。
 ……やはり云いにくいのか、とぽそりと呟くと、彼は一変して神妙な面持ちで俺に向き直り、そして深々と丁寧に頭を下げた。

「――まどかには、後で私からよく言い聞かせておきます。
 話してあると勘違いして上がり込んだ私がそもそも悪いのですが、黙っていていいことなんてありません。もちろん二人を邪魔立てするつもりなぞなくて、ただ、私は今日しか逢えないものですから。……まどかは元気にしているかなぁと思っただけなんです。弊害になるようならすぐにでも身を隠しますので」

 思わぬ事態に焦る。全身全霊で首を振る。
 よくわからないが、まどかはこのお兄さんが来て、あれほど嬉しそうな顔をしたのだ。急に帰るなんて、まどかがどれほどがっかりすることか!
「ええと、何のお話か分かりませんが、お兄さんとは兄妹仲が良いのでしょう?」

「恥ずかしげもなく言わせてもらえば、仲は相当良い方だと自負しております」

 一変してそれはそれは得意げな顔をしたその兄に、俺は怯んだ。
 即答かよ。即答しちゃうのかよ、潔いな。

「されど。
 ……いや、だからこそなおのこと、距離を置かねばならない時が来たのかもしれません」
 家に来てから初めて、寂しげに笑った。
 いやいやいや、待ってくれ、勝手にまどかが悲しむかもしれない選択をしないでほしい。心から思う。あんたが来たとき、あんたに抱き着いていたまどかが、どれだけ嬉しそうな顔をしたと思ってるんだ!

「――あの、俺の態度がなにか不躾だったのなら謝ります!
 お兄さんがあんまりシャンとした方だったから俺が勝手に気後れしただけで。お兄さんが来ないと、まどかが寂しがると思うんですよ。大したおもてなしはでできませんが歓迎します、遠慮なくいつでも遊びにいらしてください」
最後の方はしりすぼまりになって消えた。俺はなにを云っているのだろうか、本当に格好悪いな、と思う。

 突然言いつのった男に、彼は目を数度瞬かせた。

「――、瀬崎さんは、善い方ですね」

「え? ええと、な、なんですか藪から棒に」
くすくすと、口を押えて上品に笑いだした。
「いえ、失礼を。
 まどかが選んだ方なら、なんの問題もなかろうとは思っていたんです。あの子は本当にしっかりしていますから。ですが、そうですか。本当に善い方なのですね、ならば私も安心です。
 兄馬鹿な話ですが、いつまで経っても私にとっては、まどかが小さいままのような気分でしてね。可愛くて仕方ないんです」
だから、いまだにどうにも心配で逢いに来てしまうんですよねぇ、と苦笑した。

 その言い草に、思わずつられて笑ってしまった。目を丸くしたその様に、ぺこりと頭を下げた。
「……なんだか言い方がそっくりだったのもので。つい」
「それは知らなかったな、嬉しいです」
本当に嬉しそうに笑ったので、肯く。
 偽りなく、言い草が彼女にそっくりだった。自分の親しい人を恥ずかしげもなく褒めたり、自分の好きなものを惜しげもなく吹聴しておいて、そののち自分で苦笑しながら憎めない言い訳をするのだ。

 この人は間違いなく、まどかと血を分けた兄なのだと実感する。

「突然来てしまってきっと迷惑だったろうと、内心後悔をしていたんです。……でも、今日は、まどかの大切な方にお会いできて本当に良かった」
 穏やかな微笑みを湛えたその頬は、日の光を受け透けんばかりに映った。

***

 まどかが茶を持ってきたところで、俺はコンビニに行くと嘯きしばし席を外すことにした。久々に会ったようだし、二人で話したいこともあるだろう。そんな場に俺がいたって仕方あるまい。

 たいして目で確かめもせず、いつもの感覚で出しっぱなしのサンダルに足を突っ込んだ。だいたい俺は右手靴箱の前の、いわゆる”その辺”に横向きで脱ぎ放っているのだ。まどかの靴はきちんと三和土に踵をそろえて2足、サンダルとパンプスが置いてある。ほぼ必ず左側である。俺は脱ぎっぱなしにすることが多々あるのでよく怒られる。

 居間から届くいってらっしゃい、気を付けての二人の声を背に玄関を出た。途端、むっとした空気を全身に感じた。容赦ない日差しが、屋内に慣れていた網膜に突き刺さってくるような心地がする。まだ歩き始めてもいないのに、着ているシャツが汗ばむことを予感させる。眩しさにくらくらしながら見上げると、蒼天には入道雲が昇っていた。そんなに主張しなくても夏なのはしってるよ、と心の奥で小さく悪態をついた。
 さきほどまでは、むしろ今日は涼しいくらいだと感じていたものだが、普段気にしていないだけで、あれは日本家屋特有の涼しさだったのかもしれない。

 いま、俺がまどかと暮らしている家は、中古の庭付き一軒家だった。20代の同棲にしては、思い切った物件を選んだと思う。しかし、決して悪い選択だったとは思っていない。郊外とはいえここは地方都市だ。自転車で数分の距離に駅がある。いまのところ、交通に不便はない。数駅先には、近年の地方開発だかで建てられた、都心を真似した馬鹿馬鹿しいビル街もあり、我々の職場はそれぞれそこにあるのだった。駅にはスーパーもあるし、コンビニもある。交通以外にも、今のところ不便はない。

 家はというと、二人で住むには十分な広さだ。スイカを食った後は種撒き捨て放題の小さな庭に、涼める縁側まであった。庭の片隅には、まどかが気まぐれに夏野菜の苗を植えていた。日差しも良好なので、鳥と虫にさえ突かれなければそれなりに食えるものも実った。
 この辺りは古い町並みなので、こういったつくりの家ばかりだ。建てられたばかりの小綺麗なマンションの一角よりも、こちらの方が結果として安あがりだったのである。

 特に目的もなく歩いていたら、ものの数分で駅コンビニへと辿り着いた。当たり前だ、そういう物件を選んだのだから。別段用があって来たわけでもなかったが、すっかり汗だくとなっていたのでこれ幸いと飛び込む。戸を開くなりギンギンに冷えた空気が火照った頬を掠めてゆき、生き返るような心地がした。
 ふと、まどかとお兄さんになにか買って帰ろうと思い立つ。これほど外が暑いのだ、そろそろあの家の中も暑かろう。目についた買い物籠を手に取り、ランダムに選んだアイスをぶち込む。そのときまた店に客が入り、その清涼感が静かに耳に響いた。

 ――チリ、チリン、

 聴くからに涼しい。そして、見るからに涼しそう。
 冷たいものを飲まなくても涼は取れる。まどかが好みそうだった。出入り口に一番近い棚に売られていたので、これもまた気まぐれに籠へ入れ、まだ入ったばかりと思しきバイトが打つレジへと並んだ。

 客を捌くのが実に遅い。帰路につくまでの、いい時間稼ぎになりそうだった。

***

「ただいまー」
「……おかえりなさい」

 居間と思しき距離感から、まどかの声がした。
 覗くが、まどかの白い足がちゃぶ台越しにちらりと見えただけだった。こちとら暑い中歩いてきたというに、ずいぶんとのんびり寝転がっている。……俺は汗だくなんですけどねぇ。
 コンビニで一度汗は引いたものの、また家まで歩く間に汗だく状態にすっかり逆戻りしていた。コンビニで涼んだ時と違い、自宅の空気はむっとしており今度の汗はなかなか引きそうにない。
 顎からぽとりと滴ったのでシャツの裾で慌てて拭いつつ、気が付いた。

「……あれ、お兄さんは?」
彼女は畳の上で大の字になっていた。その兄の姿はない。
「…………かえったとこー」
「そっかー」
 時計は夕の6を差していたが、夏の宵などまだまだ遠い。現に外は明るく暑かった。まだ陽の明るいうちに帰るなんて、やはり気を遣って早めに帰ってしまったのかもしれない。
「これから、お父さんとお母さんにも会いに行ってくるって云ってたから」
「まどかの実家? 今からじゃ遠くないか。新幹線のチケット取ってたのか」
だからこんなに早く帰ったのかと思ったが、彼女は畳に寝転がったまま首を振った。

「そういうの関係ないの」
「ふぅん。アイス買ってきたんだけどなー、1個余っちまうな」
よくわからないが、別にいいか、と思う。盆に実家に帰るのに理由がいるものか。
 とはいえ俺は父が転勤族だったため、そして父も母も存命で、墓参りの知識は希薄だった。まどかも、いつも盆には帰っていないと言っていた。移動が混むから嫌なのかな、と俺は勝手に思っていた。今までたいして乗った覚えはないが、TV報道で見ただけの知識でも、盆の新幹線が嫌というほど混むであろうことは容易に想像がつく。

 アイスをさっさと冷凍庫に入れ、味のない簡素な段ボール箱から風鈴を取り出した。居間を横切り梁を見やる。なんとなく場所を見つくろっていると、縁側に錆びた釘が一本あったので買ったばかりのそれを吊るした。安物だが、一応透明のガラス細工で紅い金魚が何匹か泳いでいる。指でそっとつつくと、涼しげな音が鳴り満足した。
 涼しそうだろ、と報告しようと振り返り、気が付く。

「あれ、麦茶飲んでいかなかったんだね」
「うん? うーん……」
聴いているのかいないのか、よくわからない返事が来た。
 冷たいの、と選んでおきながら、あの兄は結局一口も手を付けなかったらしい。いつもチャキチャキ動くまどかが珍しく動こうとしないので、片付けるべく居間に戻ると、注がれたまま1ミリも減っていない麦茶のコップが、温度差でびっしょりと汗をかいていた。
 ”今日は茶が冷えてる”と言った妹に気を遣っただけで、お兄さんもその実、冷たいのは飲まない主義だったのかもしれない。まどかしかりあの兄しかり、気を回しすぎるのもどうなんだろう。

 彼岸の菓子も一人分そのまま残っていた。
 彼女が飲み干したであろうコップと共に全て盆に乗せ、悩む。小柄なまどかが2つ食べるには、ちょっとこれは腹持ちが良すぎるかもしれない。俺が食べてもいいが、なぜだか、もったりとしたそのアズキ餅を、なかなか食べる気にはならなかった。
 また戸棚に入れて食べ忘れたらもったいない。大の字になった彼女を促す。
「まどかぁ、餅もう1個食べてくれよ、かぴかぴになっちまうよ」
えー、もうお腹いっぱいだもん、と云って畳の上を転がった。
「瀬崎くん食べなよ、兄やんも美味しかったって云ってたよ」

「なんだ、まどかが食べてないのかよ。じゃあなおのこと食べろって」
「食べたよ、粒が半殺しでおいしかった」
 餅を見つめ、ため息が毀れ出た。
「あのなァ、1個余ってんじゃん。食ってない犯人はお前かお前の兄さんのどっちかだろ」

「……ちゃんと食べたよ、兄やんと」
ウソなんかついてない、と固い声が戻った。そののち、まどかは黙り込んでしまった。なぜそんな嘘をつくのか、意味がわからない。呆れるやらなんやら、されどいま言い募っても彼女の機嫌を損ねるだけだろうと思い、それ以上の追及は諦めた。ラップをして戸棚にしまう。

 珍しく片付けもせず台も拭かず、いつまでも寝転がっている彼女をそっと横目で見やった。
 そんなに帰ってしまったのが寂しいのか。あの兄が言った通り、よほど仲が良いのだろう。されど俺は、彼女の両親の話や友人たちの話は聞いても、兄がいるなんて知らなかったので変な感じがした。そんなに寂しがるほど仲がいいなら、今までの短くもない付き合いの中で話題に上ったっておかしかないのに。
 ……やっぱり、妬くとでも思われていたんだろうか。自身の嫉妬心を顧みて反省する。

 しかし、挨拶もなしで帰路についてしまうとは。
 親しげに言葉を交わしてくれたため、内心ありがたく思っていたのだが、そもそもあの兄は可愛い妹に会いに寄っただけなのだから、その妹と同棲中の男なぞ心底どうでもよかったのかもしれない。

 ……一瞬だけ悩んだが、腹をくくった。
「――あのさぁ、まどか」
寝転がったままだった。
「…………なぁに」

 顔だけでもこっち向いてくれないもんかね。
 大事な兄やんがいなくなって傷心かもしれないが、いまから大事なことを云うんだぞ。

「……その、今日はお兄さんには会えたけどさ。俺は、まどかの家族には会ったことがないわけじゃん。一緒に住むって決まったときだって、遠いし電話の報告で充分ですよって親父さんには言われちゃったし」
「まぁ、私の実家ほんと遠いから仕方ないよ。一日かかっちゃうからお父さんも気を遣ったつもりなんだと思う」
「うん、でもまどかはうちの親とも親しくしてくれてるのにさ。……気が早いかもしれないけど、ちゃんと挨拶しに行ってもいいんじゃないかと思うんだけど」

 う~ん、と視界の先でまどかは唸った。
 途端に勇気が萎えた。
「…………なんか都合悪いか? 嫌か?」 
「ううん。お父さんもお母さんも喜ぶと思う。
 でも私、瀬崎くんにまだ一つ、大事な話をしていない」

 ん?

「なに? なんか重篤な病気にかかってるとか? 俺は、まどかが来年死ぬ運命だっつっても一緒にいるぞ?」
 俺はそんなつまらないことで俺の女神を手離す気はない。
 されどそんなこちらの決意は何のその、彼女は首を振り、子供のころから健康そのもので今のところ死ぬ予定はない、といった。

「さっき遊びに来たうちの兄やんなんだけど」
「うん」
返事をやりつつ、脳はフル回転していた。

 なんだ?
 あんな爽やかな顔して実はものすごく変態とか?
 職を失って路頭に迷っているとか? 騙されて借金だらけとか?

 どこまでのラインなら俺はまどかを諦められずにいるのか、いくつか浮かんだ妄想の選択肢を前に、一瞬すべてのことがらに対して本気で真剣に悩んだ。

「~~~俺は! たとえまどかの実のお兄さんであっても、まどかを譲る気はな」

「もう亡くなってるの」

 ――は?

 縁側に吊るした風鈴が鳴り、我に返る。
 なんだ? なんだそれ、どういうこと?

「、ちょっと待って。なに? もう一回言って」
「本当は私よりずっと年上だったんだけど、今年ついに追いついちゃった。
 同い年になっちゃったねって話を兄やんともしたんだけどね? そしたら、来年はちゃんと年上になっててほしいなって笑ってた。それはそれで寂しく思うくせにさ。兄やんてば、ほんと全然そういうとこ変わんない」

 ……はい?

 むくりと起き上がり、まどかはこちらを向いて正座した。ちゃぶ台越しに対座するような形になった。彼女は、とても真面目な顔をしていた。
「あのね?
 ピンと来ないかもしれないんだけど、兄やんはとっくの昔に亡くなってるの」

「……う、うん? それは、いまので二回目だな」
「瀬崎くんがもう一回言ってって言ったんじゃない」
「そ、そっか。そうだった……」
返事をしながらも、俺の脳はもはや真っ白になってしまっていた。なにがなんだかわからない。まどかはなにを云っているんだ。

「兄やん、わりとシスコンだったから。
 まぁ、妹なんて大概そういうものなのかもしれないんだけど、私のことがいつまで経っても心配なんだって。これでもちょっとはしっかりしてるつもりなんだけどなー……。それで、心配だからって毎年必ず逢いに来てくれて」
「ん? うん……?」

「……生きてる人と、全然違わなかったでしょう?」

 問いかけに、俺は肯くことも首を振ることもできなかった。
 俺の知る、しっかりしているはずのまどかは、いつになく支離滅裂な話し方をしていた。ただ、その姿は、表情は懸命で、彼女がいま真剣に話していることだけは確かだった。

「え、でも、足あったぞ? 幽霊って足は」
「私もそれ昔に訊いた。
 兄やんが云ってたんだけど、足なんて気合でなんとでもなるんだってよ。手足が出せないやつは気合が足りないって云ってた」
「き、気合い……なの?」
うん、気合いらしいよ、と肯いた。なんとも荒唐無稽な話だった。脳みそが完全にフリーズした俺を置いて、まどかは話を続けた。
「動かそうと思えばモノも触れるし動かせるけど、疲れちゃうからそれはあんまりしないって云ってた。いつも、インターフォンを押すくらい」
思い返す。確かに鳴っていた。インターフォンが鳴って、彼女が出たのだから。

「あれね、実はインターフォンはちゃんと鳴るんだけど、覗き窓から覗いても兄やんの姿は全然映らないんだ」
「…………あ、それは気合いじゃないんだ……」
「物体越しになると、うまくできないんだって」

 ――あれ、と思う。
「、俺、握手もしたんだけど?」

 ぴしゃりと言い放つ。
「冷たかったでしょ」
「……冷たかった、……というか、温度がない? というか」
 思い返す。ズボンで拭ってもなお、緊張でやや汗ばんでいた自分の手のひら。

 そう、握った時に、まるで、

「……スっと、全身の汗が引いていくような心地がしなかった?」

 ここにきてようやく背筋がゾッとした。肯くほかなかった。
 あの穏やかな顔をした男が、幽霊だったのだと思い知る。固まってしまった俺を見て、まどかは少し目を伏せた。
「瀬崎くん、行くときは気が付かなかったみたいなんだけど、帰って来て玄関の戸を開ける時くらいにさ、いけない、靴がないと彼を吃驚させてしまうよねって兄やん慌ててかえったの」

 ……はい?

 思い返す。帰ってきたとき、彼の靴はあったか。
 否。なかった。まどかのサンダル、まどかの会社用の黒いパンプスだけ。

 では、俺がコンビニへ行くと出かけた際、玄関にあの曇りのない革靴はあったか。
 否。足先の感覚だけでサンダルを履いたものの、それでも見慣れない靴があれば、さすがの俺だって見返したはずだ。……男物の革靴なんて玄関にはなかった。

 靴なんて、置いておけるわけなかったのだ。戸の覗き窓に姿を映せない人が、履いてもいない靴を玄関に存在させていられるわけがない。

「……でも、ほら。兄やん、普通の生きてる人みたいだったでしょう?
 別に、なにも悪いことはしないの。ただ、毎年家族に逢いに来てくれるだけ」
それこそ肯くほかなかった。
「え、ええと、その、お兄さん今日が命日かなんかなの?」 

 首を振る。
「馴染みがないから仕方ないよね。今日は、何月何日ですか?」
 カレンダーを振り返る。
「ええと、……8月の、」

 ――あ、

 思い至った俺に対し、肯く。
「――お盆って決まってるの。今日は迎え盆でしょ。
 だから、うちは家族で盆の墓参りなんてしないんだ。兄やんに会うのに、兄やんのお墓の前にいるなんて変だし、嫌でしょ」

「え、ええと、じゃあ」
「また来年も逢いに来てくれると思う。思うっていうか、絶対」
兄やん律儀だから、一度も欠かしたことないんだよね、と云った。

 そのなんでもない彼女の様子を、俺は見つめるしかなかった。
「……私と一緒にいたらね。
 毎年、お盆に兄やんに会うことになるの。一応、幽霊ってことになるかな」

 ――こわい? と、まどかは俺に問うた。

 首を振る。
 質問が脳に至る前に、体が勝手に動いていた。まどかは意外そうな顔で俺を見た。なぜ首を振ったか、自分でもよくわからなかった。
「……正直、あんま実感ないけど、まどかのお兄さんは心配して来てくれてんだろ」
「うん」

 だって、あんなに嬉しそうな顔をしたじゃないか。あの人が来たとき。

「じゃあ、別に俺がどうこう思うことじゃないだろ。
 まどかもお兄さんが来るの楽しみにしてるんだったら、それでいいと思う」
「……いいの? 男に二言があってもいいけどさ」
 首を振る。それはない。二言がどうとかそういうことじゃなく、まどかがいいならそれでいい。

「二言なんかないよ。
 ……だいたいあんなに嬉しそうに抱き着いてさぁ、俺は思わずうっかり妬きかけたよ」
「……私の兄やんなんだから、妬く必要はないでしょ。
 ていうか、瀬崎くん、またそんなつまらないこと気にしてたの?」
 ほらやっぱり、そういうことを云うだろ……。
 目を丸くしたまま、そうのたまったまどかに、俺は思わず項垂れた。
「……あの爽やかさを前にして、怖気づかない男がどこにいんだよぉ……」

「……なんか、心配してソンしちゃった」
「はぁ……?」
云うなり、ごろりとまた大の字になって寝転がってしまった。だが、その足はばたばたと落ち着きなく揺れていた。

「……ありがとー、瀬崎くん」
「ん? や、なにが? どういたしまして、……になるの?」
「さァねー」

 平素通り、彼女が栄養素まで完璧に計算して作ったであろう献立にならい、俺は言われるがまま肉と野菜を切った。そうやっていつものごとく手間のかかった夕食を彼女と食べて、そして縁側に出て棒アイスをかじりながらぼんやり夕空を見上げた。

 まるで夢のような、現実味のない本日の出来事を思い返しながら俺が茶を飲んでいたら、
「……いくら幽霊とはいえ、大好きだった兄やんが怖がられるのは、どうしてもやだったの」
兄やんが来る前に云わなくてごめん、と彼女は寂しそうに笑った。
 その笑い方は、距離を置かねばと述べたその兄とよく似ていた。

 ため息ひとつ。
 俺は、どうにもこの顔に弱い。平素にこにこしている人が、急に寂しそうな顔をすると、放っておけなくなってしまうのだ。
 にこにこしててくれよ、頼むから。俺まで落ち込んでしまう。

「…………挙式とか、盆でもできんのかなぁ」

 目を丸くしたのち、まどかは縁側でけらけらと笑い転げた。涙まで流してべちべちと床まで叩き出したので、ちょっと腹が立って思わず立ち上がった。
「~~~くっそォ、真剣に言ったんだぞ俺は! 気が早いってか!?」
 今後のことを考えているのは俺だけなんじゃないか、まどかは俺との今後は考えてないんじゃないか、と真剣に思ってしまう。

「いやいや!! 瀬崎くんすごい! カッコいいさすが!!!」
「くっそォ~~、軽く俺を馬鹿にしてませんかね……! 何様まどか様め!!」
 首を振る、大きく振る。
 笑った。

「いやいや、危うくうっかり惚れ直すところだった!」

 項垂れる。
「……そこはうっかりしろよ」

fin.

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