翡翠の双眸 第2話

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* 塩鮭を君に *

 一夜が明けた。
 今朝は炊き立ての白米とかぶの味噌汁、あとホウレン草のお浸しと大根のお漬物。そして好物の焼き鮭だ。味噌汁を一口すする。……ちょっと濃かったかもしれない。
 平和ですねと言いたいところだが、いえ全然。よくもまぁ再びお天道様にお会いできたものだ。鮭とご飯の咀嚼は止められぬまま、私は答えの出ない問いを前に固まっている。

 鮭に箸を伸ばす。
 あの場を何故か生還した私は、わざわざ早朝起きて市場へ行って一番良い塩鮭を買ってきた。大変美味である。下手な小細工をせずシンプルに焼き上げた鮭は、素材の味が最大限に生かされ、本当に格別に旨かった。
「良い脂が乗ってますねぇ……」
 独り言も冴えない。鮭も食べ収めになるかもしれない。古びた湯飲みに玄米茶を注ぎ足し飲み干した。

「こんばんは、先生」
そう言ってあの青年は目を細め笑った。

 見られたという怯えも無く、お前も殺してやるという狂気も見せず、ただただ普通に笑った。
 それは喉を切り裂く連続殺人犯というよりは、会場で出会った青年の笑顔に近く、だがそのどちらよりずっとずっと不気味だった。
 その左手に持っていた黒い革手袋は所々赤黒くシミが出来ており、彼が連続殺人犯であるという揺ぎない事実を私に突きつけていた。

 私は返事をする事も叫びだす事も逃げ出す事も出来ずに、ただ無言で彼を見つめ返した。街灯に集る蛾が小さく羽音を立てながら舞い、その影も地面で踊っていた。
 追い掛けて来て回線を切った癖に、無反応の私に彼はようやく顔を困らせ頭を掻いた。
「弱ったな。……また、日を改めて伺います」
では失礼しますと頭を下げた後、背を向け歩いて去っていった。

 いまをもって思う。何故まだ私は生きているんだろう。
 人を殺した、見られた、見たやつに逃げられた、でも追いついた。一体、それで何に弱る必要があったのだ。

 訳がわからなかった。
 何故その場で私を殺さない?
 もし私が彼と同じ立場なら、追いかけて捕まえた時点で殺して口封じを完璧にして荷造りをして、今頃は海外に高飛びでもしている頃だろう。

 あの後、彼の後ろ姿が見えなくなってどれだけ経過した頃だろうか。
 ようやく私は重い腰を上げフラフラと自宅へ戻って、何を考えるのも嫌になってしまっていたら睡魔が襲ってきたのですぐに床についた。

 あんなことがあっても私は通常通り眠くなり、朝起きたらやはり腹も減った。そして布団を畳みいつも通り銭湯へ行き、近所のちょっとボケたおじいさんにジャンケンを挑まれ、右拳で見事勝負に勝ち珈琲牛乳を奢って貰ったりした。

 全然実感が湧かない。いつも通り日はまた昇りご飯が旨い、あまりに平素通り過ぎる。
 朝起きた時から珈琲牛乳を飲み終わり帰路に着くまで、あれは酔って見た夢、嫌にリアルなだたの夢だったのだと信じ込もうとしたのだ。それは祈りに近い願望だった。

 だが家へ帰り着き朝刊を読み、『新たな犠牲者が、今回は女性、川原で』まで読んで、いよいよ頭を抱えた。それ以上は、読むまでも無かった。
 私はその場にいたのだから!
 喉から静かに零れ出る鮮血、小刀を翻す左手、崩れ落ちる女性、ありえない形で曲がった腕、月夜に光る金の髪、哂う蒼い瞳。
 ……私のほうが紙面より詳しいんですよ、ええもう嫌という程に。

「はぁ……」
 頭痛がした。箸が止まる。まだ鮭も漬物も途中だ。
 自分が嫌になる。結局あの女性を助けてやることも叶わず、あの青年を警察に教えてやる気にもならず、そしてそれで当然犯人は捕まっておらず、おまけに私はしっかり面が割れてしまっている。

 黙って殺しに来るのを待つしかないのか。彼が殺しに来るまでに何か遣り残している事は無いだろうか。

 ……――母の墓前にも行けずじまいか。父にもあれ以来会えていない。
 どこまで親不孝者なのだ私は。あと妹からの手紙に早く返事を書いてやらねばなるまい。見合いの話はどうなったのか、ごねずに会ってみれば良いのに、などと現実感のない頭で思考する。

 鮭も残すところあと一口となっていた。
 食べ収めだなんて寂しいですね? 心の中で鮭に言う。現実逃避もここまで来ると病気だ。

 ふと、安アパートの玄関をノックする音がした。そういえば回覧板が回ってくる頃だった。
「はぁい、すぐ参ります」
口の中にあったホウレン草を茶で流し込み、箸を置き玄関へ小走りに急ぐ。

「おはようございます」
「、」
言葉にならなかった。薄い戸の先にはあの笑顔。日の光を浴びて輝く金の髪は、紛うことなく昨晩の男の髪だった。青年はにこやかにこちらの様子を伺っている。
 もう嫌だった。全部無かったことにしたかった。
「……~~あんまりですよ」
私は瞳を直視できず、肩が震え視界は滲んだ。
「はい?」

「……まだ、まだ食べきってないんですよ!? 私、朝ごはんの途中で、人生最期のつもりで一番良い鮭を買ったというのにいま死ぬだなんてあんまりです! 食べきられなかった鮭だって憐れじゃありませんか!!」
 言いながら自分でも衝撃を受けた。馬鹿か。
 違うでしょう命が惜しいって言いたかったんでしょうが私ってヤツはなにこれもう本当に恥ずかしい。これではただ食い意地の張った男ではないか。

 青年は目を丸くして暫く黙っていたが、
「……――ふ、っふふ、鮭っ、」
含み笑いは段々大きくなり、ケラケラと笑いだした。
 今度は私が目を丸くする番だった。
「、いや、すみませ、我慢はし、っはは」
ヒィヒィ言いながら目に涙まで浮かべて笑っている。
 馬鹿馬鹿しくなり次いで少なからず怒りの感情も湧いてきた。私の憮然とした表情に気がついたのだろう、青年はぴたっと笑い止み、あいすみませんと肩を震わせ謝った。

 笑い声が聞こえたのか、アパート前の道を歩く人が何人かこちらを見ていた。
 ただでさえ彼の容姿は目立つのだ。注目を集めるのが苦手な本田は弱り、仕方なく彼を招き入れる。

 朝食をひとまず台所へ追いやった。
「入れていただけるとは思いませんでした」と呟かれる。
そりゃそうであろう入れるつもりなぞ無かったですよ、と心の中で返す。

 無言でちゃぶ台に湯呑みを並べた。
「先生?」
「……どうでもいいですが、その先生というのは止めていただけますか」
むず痒い。
「馴れ馴れしかったでしょうか、ではどう呼べば」
答えずに茶菓子を促すと会釈が返ってきた。
「……あと敬語も要りません」
「は、しかし先生が俺に敬語なのに俺がそれでは」
「私のこれはただの癖です。要りませんと言ったら要りません」
ぴしゃりと言い放つ。そんなことは今どうでもいいのだ。 

「……昨晩、怖がらせてしまった事を怒っておられるので」
本田は久々に自分の血圧がカァッとあがるのを感じた。

 ――怒る、だと?

 何を酔狂な。
 非道な行いをしたという自覚はないのか。あの女性があなたに何をしたというのだ。何故そうも平素通りにしていられるのか。

 私を殺しに来たのではないのか。

 要領を得ない遣り取りに、腹の底が沸々と煮えるのを感じていた。
「敬語は要りませんと申し上げたはずです」
 私のオブラートという名の八橋は、私の胃の中でボロのようになっており、かといってそのまま吐き出す勇気も無く、とりあえず遣り辛いので注意をした。
 怒気が含まれていたのかもしれない。青年は黙って目を伏せる。長い睫毛が瞳に影を落としていた。睫毛まで金色なのか、などと場違いなことを思う。

 湯呑みに手を伸ばす。一応彼にも淹れてやったが飲まないかもしれない。彼は湯呑みを見つめたまま、口火を切らずぼんやりしている。

 昨日見ただけでの考察だが、彼は体術の類はあまり詳しくないか、若しくは不得手なのではないだろうかと考えていた。若いから力は当然それなりにあるだろうが、不利な状態で無理に何かを仕掛けてくるような無茶な青年には見えなかった。
 なによりあの文才を持つ頭だ、馬鹿ではないはずだったし。同じ殺人方法で自らを世間に誇示する顕示欲、警官の警戒網を破り殺害を続ける挑戦的な性格。
 お前たちには捕まえられやしない、という絶対的な自信とプライドがあるのだろう。

 ただ、あんな大胆な手口はする必要はあるまいと本田は思う。犯罪自体の手口は決まっているものの、計画性を持ってあんな事をしているとは思えなかった。
 少なくとも彼は帰路についてはあまりに関心の無い印象を受けたのだ。追って来た時も、返り血の散々ついた手袋を素のまま持っていた。
 刃物の扱いだって、慣れからか無駄の無い弧を描いていたが、角度をしくじれば返り血を浴びて服が御仕舞いだろう。着ていた服や小刀を捨てるわけにも、ましてやそのまま帰る訳にもいかないというのに、敢えてあんな殺害方法をとる理由がわからない。

 頚動脈を締め落とすなり鳩尾を殴るなりして気絶させ、静かにしてから足に重石でもつけて川にぶち込む方が確実に、そして自分にダメージも無く安全に殺せる気がした。
 少なくとも本田ならそうする。想像だけの本田と彼は重視する点が根本的に違うのだろうが。

 湯呑みの茶は熱く、なかなか減らない。
 ふぅふぅっと息を吹きながら、黙って座っている彼を盗み見る。湯飲みを両手で持ち、だが口はつけず静かに視線を落としている。その姿は、とうに成人を過ぎた青年であるのに、どこか頼りない迷子のような印象を受けた。
 これが、昨日の残虐な男と同一人物だとは、本田にはどうにも信じがたかった。

 ……やりあって勝てるだろうか。
 殺すのは御免だが、生憎と殺されるのはもっと御免であった。昨日は動転していたが今は冷静だし、この青年も大人しい。こちらはあちらを殺す必要なんてない。気絶させられればいいのだ。そうすれば警察に引き渡せて一件落着。だが向こうはこちらから手を出せば、あの大人しい顔を豹変させ殺す気でかかってくるだろう。

 身長と体力からみれば圧倒的にこちらが不利だが、目潰し急所蹴り本棚倒しオールオッケーの、なんの縛りのないただの喧嘩ならば負ける気はしなかった。武道に則った公式と違い、素人の殴り合いなんてものは、相手の不意をつけばそこで勝敗なぞ決まったも同然なのだ。
 ただ、接近戦であの時の小刀サイズの刃物を出されたら厄介だった。武器を出す間さえ与えなければ、体術を駆使して組み伏せられるだろうか。
 如何せん、相手の情報が少なすぎる。やってみなければ何もわからないなと溜め息をつく。

 熱い玄米茶を飲み干し、意を決し息を吐いた。
「……単刀直入に申し上げます」
彼は返事をしかけ、『敬語使うべからず』が頭をよぎったのか黙って頷く。

「私の口を塞ぎにいらしたのでしょう。
 さりとて私も日本男児、一筋縄ではやられません。本気でこないと、体たらくなお国に変わり私がひっ捕らえますよ」
色々と迷った挙句、少し挑発してみた。どうにでもなればいいと思った。向こうが掛かってくるなら、こちらもそれに応えるだけだ。

 彼は蒼い目を丸くし、口はぽかんと開いていた。
 一呼吸置き、はははっと彼は苦笑した。その様子にちょっと気を悪くする。舐めてられている。だがしかし仕様の無い話だ。自身の頼りない見た目は自覚していた。
「確かに昨日は始末するつもりで追いましたが、」
ケロリと言う。
 何故気が変わったのか知らないが、そうでなければあの腑抜けた状態だった私は殺されるはずだった訳だ。予想していた返事とはいえ、ゾッとしない話だ。
 今なら反撃もできるが、確かにあの状態ならいとも容易かったろう、と昨日の自分を恥じる。
「敬語は、要りません、」
虚勢を張るが動揺はうまく隠せない。

「あなたは中々に面白いし」

「は?」
「鮭です、鮭」
ふっ、と笑う。
 敬語は云々と口を開きかけると、とうとう青年は眉根を寄せ、多少の努力はするが急に言われても無理だと開き直った。
「結論だけ言えば、あなたを殺す気はもうありません」
そう言うと、こちらを見ていた視線は古びた窓の外へ移った。

「今日は曇り空だしここは川原でもない。あなたが窓の外へ向かい『殺される』とでも叫ばない限り、たぶん俺の気は変わりません。……その目は全く信じておられないようですが」
「ええ、信じがたいです」
 俄かには信じがたい。というよりも信じられるわけが無い。この場が川原で月がなければ、自身を売り渡すかもしれない私の生死など、どうでも良いような言い方だった。

「俺があなたのファンだとお伝えしたのを覚えていらっしゃいますか」
「? ええ、あれは吃驚しましたが純粋に嬉しかったです」
青年に朗らかな笑顔が戻る。

「……一筋縄にはいかぬと仰いましたが、あなたを殺すなど造作も無い事」
笑顔のままさらりと言い放ったが、その目には挑戦的な光が宿っていた。やはり自信家だったようだ。
「ただ、俺にはあなたのような本を書くことはできないのでね」
「……何を仰るやら」
「あなたを殺せば新刊が読めなくなる。俺の楽しみが減ります」
ふざけているのかと思ったが、綺麗な目玉が真っ直ぐにこちらを向いていた。蒼い瞳を暫く観察したが、真意が読めない。
「おだてても何もでやしませんよ」
「世辞を言うつもりはありません。無駄は嘘は嫌いだ」
受け答えにも、澱みはない。青年は湯飲みからとうに目を放し、こちらを見ている。

 何か引っ掛かる。
 こんなことを聞くのもな、と思うが、気になった。
「質問しても?」
「どうぞ」
躊躇いもなく促され、私は口を開いた。
「……なんだってあのような残酷なことを?」
「軽蔑しますか?」
――軽蔑だ?
「そんなことはいま関係ありません」
「”そんなこと”?
 大事なことですよ。どうなんです、軽蔑しますか?」
素直に腹が立った。促しておいて答える気はないと云うのか。

「話題を逸らすのはお止めなさい、いま訊いているのはこちらです」

 蒼い目が哂った。川原で見た時の目だった。
「先生は聡明な方だ」
「……質問の返事をして頂きたいのですが」
返事をしながら彼を見返す。

 ……やはり。
 あれほど気持ちを雄弁に語っていた彼の目は、何の感情も映さなくなっていた。
 ……私を試しているのだ。
 私の紡ぐ一字一句、一挙一動を。現に彼は、私から一切目を逸らさない。気がつけば彼に渡した湯呑みはちゃぶ台に戻され、彼の両の手は私から見えぬ位置にあった。思い至り、背筋を嫌な汗が滴るのを感じた。

 ――たぶん。
 たぶん、つまらなくなれば斬られる。

「……犬だろうが木だろうがいつか死にます、死んで文句を言うのは人だけだ」
答えになっていない。無言で続く言葉を促す。
「生きてる事になんの意味があるのか、なんて思ったことはないですか」
「……ありますよ」
一瞬頬が緩み、だがしかし途端に表情は無くなり、
「では、死にゆく者と 生きてゆく者の差を考えられたことは?
 昨日俺に殺されたあの女性と、今生きて俺と話をしている先生は、一体何が違ったんでしょう?」

 本田は、答えられなかった。
 彼もまた長くは答えを待たず、「俺にはまだ見つからないのですよね」と呟いた。

「……――斬るのは答えを探すためですか」
「いや。なんでしょうね。……自分でもよくわからないのです。
 こんな理由では対象となった人たちに多少は申し訳なく思うが、川原で綺麗な月を見ている時に誰かに声を掛けられると駄目なんです、俺は。かといって、大半がそうだというだけでそうじゃない時に衝動的に切ることもある。
 ただ俺がわかっている事は、誰かを殺しても腹が減り朝日が昇り暮れてゆき眠くなる。俺自身は何も変わらないという事でしょうか」

 理解できる点も有り、できぬ点も有り。
 だがしかし本人にもわからぬものが、他人の私にわかる訳がない。

 疑問を残しつつも私は昨晩からの自分を省みていた。
 確かにあんなものを見たというのに、眠くなったし腹も減った。うなされなかったと言えば嘘になるがキチンと横になったら気がつけば眠れていた。

 沈黙が部屋を満たす。
 急須の茶はほとんど減っておらず、時刻は既に昼近くなっていた。

 聴きたいことも無くはなかったが、私は黙っていた。
 内容が内容なので気持ちは暗くなっていたし、彼の手は未だ私から見えぬ場所にあり、殺されるかも知れぬ状況は変わっていなかった。
 だがその実、私はこの青年がさほど嫌いではなかった。
 無論憎むべき点はモラルの観点では山の様にある。だがそれを差し引いても微妙な所ではあったが、彼の言うことは純粋に興味が湧いたし、意味不明な問答も大筋悪くない。
 この妙な青年は、普段から物事をどのように捉えているのだろう。出来るならあの居酒屋で一晩飲んで語り合いたいくらいだ。店主も喜ぶことだろうに。

 しかしそれも叶わぬ話だ。
 これ以上何か訊いたら、また興味が湧いてしまいそうだった。
 その辺の野良の犬や猫ではないのだ、殺人犯に対し馬鹿馬鹿しい。警察に引き渡す気持ちが失せてしまうなど、亡くなった多くの被害者の為にもあってはならない。
 ならば、関心など持たぬことだ。

 いくら私が関心を持っても、彼の根が悪いものでなかったとしても、彼のした行いは決して赦されることではない。
きちんと償わなくてはならない。
 彼はまだ若い。誠実に償う意思を見せれば、無期懲役で済むかもしれない。

 そんなことを考えていると、彼は私を見るのを止め、視線は右手にある本棚の表面をなぞった。上から下までつーっと金の睫毛に縁取られた蒼い瞳が動くのを私は黙って見ていた。

 すると、ふ、と一点で瞳が止まった。見る間に瞳孔が開く。
「、あ……」
 彼の最初の本だった。書いた本人にバレるのは、何故だか少し気恥ずかしかったが見つかったものは仕方ない。
「素晴らしかったです」
と、率直に感想を述べた。
 無駄に語る必要は無い。良い感情は、長ければ長いほど蛇足なのだ。きっとそれで伝わるだろうと思った。
「……そう、ですか」

 情など湧かぬよ、私は。
 一言いってそっぽを向いた彼の左頬は明らかに紅潮しており、照れを隠し切れていなかった。

* 堪忍袋 *

 彼はまた私を殺さず帰るようだった。

「そろそろ、お暇します」
 静寂を破り私の腹の虫がなった頃、少し苦笑し彼はそう言った。
 忘れていたが、あなたの鮭の邪魔をしてしまったのだったなぁと言われ、緊張感の無い自分の腹に何とも情けない気持ちになった。
 結局飲まれることの無かった茶の入った湯飲みを片付けようとすると、折角なので戴きますと言い、彼はその場でぐいと飲み干した。

 この場で私がまた聞くのもおかしいと思ったが、
「このまま私を殺さずにおいていいのか、警察へ言いますよ」
と言うと、
「おかしな事を訊く方だ、俺は無駄な嘘はつかない。殺さないと言ったら絶対殺さない。そう何度も訊くとは、あなたは俺に殺して欲しいのですか?」
と、怪訝な顔をした。
 おまけに「言いたいのなら、言えば宜しいです」と、信じがたいことを言った。

 私が次ぐ言葉に困っていると、
「恐らくあなたは、あの手袋と刃物が見つかればと考えているようだが、あんな決定的物証を俺がそれと判るような場所に保管していると思いますか?
 見た人はあなたしかいない。
 『その時間は家に帰っていた、一人だったので俺にその証明はできないが、授賞式でお会いした本田先生は酔っていらした』……と言えば終わりだ」
彼はようやく戻った笑顔を崩さない。

 確かに私は酔っていた。そしてそれを証明するのは彼自身と、式場の人間、あと帰りに寄った飲み屋の店主だ。べろべろに酔っ払った私と、昨日受賞し尚且つかなり人当たりの良いこの青年とでは、どちらの言い分が通るかなど明白であった。

 ――下手をすれば、私は若き作家に嫉妬した嘘吐き扱いだ。

 目を伏せ黙った私に頷き、
「納得いただけたようで何より。……でも、せっかくなのでもうひとつ付け加えましょうか」
顔を上げた私を、まっすぐに見つめていた。やましいことなどないかのようだった。
「あなたはご存じないのでしょうが、『誰にも見られていない、誰にも会っていない』というのは、日本における俺の頭髪的には却って有り難い事。
 俺の髪はこの日本では嫌でも印象に残る、遠目でも目立つ。
 ……だが誰も外では見かけてないと言えば?
 『こんな目立つ色、外で見逃すわけが無いだろう』『事実、俺は家に一人でいたのだから』と言ってしまえば、仮に俺が外にいたとしても家に居た事にできてしまうんですよ。
 ――警察は、あなたの言葉を信じない」

 両手を目の前で開いてみせ、私を見つめたのち、目を細めて哂った。
 それは、おもちゃを見つけた子供の笑顔だった。

 ……すっと血の気が引くのを感じた。
 ああそうか、そうなのか。
 私を殺すのをやめたのは気まぐれだ、と言っておきながら、それも全て計算ずくと言うわけか。今日、家に来たのも話した事も茶番だ。警察へ言っても無駄だと言いに来ただけなのだ。
 あとはずっと私の反応を見て楽しんでいただけだ。
 最初からこの男は見たのが私だとわかった時点から、殺す気などさらさらありはしなかった。

 完璧に舐められていた。事実、掌で転がされていただけだ。
 私の顔を見て全て悟ったことがわかったのか、彼は「先生は聡明な方だが、如何せん深読みしすぎだ」とのたまった。言葉も無く固まっている私を一瞥し、そこでふと、どうやら挑発されたことを思い出したらしく彼は一言付け足した。
「――現行犯でもない限り、俺は捕まえられっこねぇよ、先生?」
無邪気に微笑んでいた蒼い瞳が、そこで初めて私を嘲笑った。

 腹の底が急速に冷えてゆくのを感じた。
 ……――この糞餓鬼。
 床に視線を落としながら、自身の口角が上がってゆくのを感じた。

「ではまた近い内に」
否定などさせない、とでも言いげな口振りだった。
「ええ、是非。歓迎しますよ」
彼は靴を履きながらぴたりと止まり、こちら振り向き、目を少し見開いた。

「……始末しておくべきだったか」
と、それは楽しそうに目を細めた。

続.

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