第2話(2)堪忍袋

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* 堪忍袋 *

 彼はまた私を殺さず帰るようだった。

「そろそろ、お暇します」
 静寂を破り私の腹の虫がなった頃、少し苦笑し彼はそう言った。
 忘れていたが、あなたの鮭の邪魔をしてしまったのだったなぁと言われ、緊張感の無い自分の腹に何とも情けない気持ちになった。
 結局飲まれることの無かった茶の入った湯飲みを片付けようとすると、折角なので戴きますと言い、彼はその場でぐいと飲み干した。

 この場で私がまた聞くのもおかしいと思ったが、
「このまま私を殺さずにおいていいのか、警察へ言いますよ」
と言うと、
「おかしな事を訊く方だ、俺は無駄な嘘はつかない。殺さないと言ったら絶対殺さない。そう何度も訊くとは、あなたは俺に殺して欲しいのですか?」
と、怪訝な顔をした。
 おまけに「言いたいのなら、言えば宜しいです」と、信じがたいことを言った。

 私が次ぐ言葉に困っていると、
「恐らくあなたは、あの手袋と刃物が見つかればと考えているようだが、あんな決定的物証を俺がそれと判るような場所に保管していると思いますか?
 見た人はあなたしかいない。
 『その時間は家に帰っていた、一人だったので俺にその証明はできないが、授賞式でお会いした本田先生は酔っていらした』……と言えば終わりだ」
彼はようやく戻った笑顔を崩さない。

 確かに私は酔っていた。そしてそれを証明するのは彼自身と、式場の人間、あと帰りに寄った飲み屋の店主だ。べろべろに酔っ払った私と、昨日受賞し尚且つかなり人当たりの良いこの青年とでは、どちらの言い分が通るかなど明白であった。

 ――下手をすれば、私は若き作家に嫉妬した嘘吐き扱いだ。

 目を伏せ黙った私に頷き、
「納得いただけたようで何より。……でも、せっかくなのでもうひとつ付け加えましょうか」
顔を上げた私を、まっすぐに見つめていた。やましいことなどないかのようだった。
「あなたはご存じないのでしょうが、『誰にも見られていない、誰にも会っていない』というのは、日本における俺の頭髪的には却って有り難い事。
 俺の髪はこの日本では嫌でも印象に残る、遠目でも目立つ。
 ……だが誰も外では見かけてないと言えば?
 『こんな目立つ色、外で見逃すわけが無いだろう』『事実、俺は家に一人でいたのだから』と言ってしまえば、仮に俺が外にいたとしても家に居た事にできてしまうんですよ。
 ――警察は、あなたの言葉を信じない」

 両手を目の前で開いてみせ、私を見つめたのち、目を細めて哂った。
 それは、おもちゃを見つけた子供の笑顔だった。

 ……すっと血の気が引くのを感じた。
 ああそうか、そうなのか。
 私を殺すのをやめたのは気まぐれだ、と言っておきながら、それも全て計算ずくと言うわけか。今日、家に来たのも話した事も茶番だ。警察へ言っても無駄だと言いに来ただけなのだ。
 あとはずっと私の反応を見て楽しんでいただけだ。
 最初からこの男は見たのが私だとわかった時点から、殺す気などさらさらありはしなかった。

 完璧に舐められていた。事実、掌で転がされていただけだ。
 私の顔を見て全て悟ったことがわかったのか、彼は「先生は聡明な方だが、如何せん深読みしすぎだ」とのたまった。言葉も無く固まっている私を一瞥し、そこでふと、どうやら挑発されたことを思い出したらしく彼は一言付け足した。
「――現行犯でもない限り、俺は捕まえられっこねぇよ、先生?」
無邪気に微笑んでいた蒼い瞳が、そこで初めて私を嘲笑った。

 腹の底が急速に冷えてゆくのを感じた。
 ……――この糞餓鬼。
 床に視線を落としながら、自身の口角が上がってゆくのを感じた。

「ではまた近い内に」
否定などさせない、とでも言いげな口振りだった。
「ええ、是非。歓迎しますよ」
彼は靴を履きながらぴたりと止まり、こちら振り向き、目を少し見開いた。

「……始末しておくべきだったか」
と、それは楽しそうに目を細めた。

続.

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