翡翠の双眸 1話

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*** 1話 翡翠の双眸 ***

 何年も前の話だ。
 流麗な文章と瑞々しい感情描写で一世を風靡し、心理描写の天才、期待の新星と言われた小説家がいた。
 あくまで”いた”である。それはもう過去の話だ。

 華やかな会場にそぐわぬ、少し浮かない顔で一人佇む青年、本田菊がその人であった。周囲の喧騒から少し離れて壁を背に、乾杯の音頭であげたシャンパンに口を付けず、グラスの中で揺れる水面を静かに見つめていた。
 秘かに彼のコンプレックスである、実年齢より幼く見える童顔にプラスして男性にしては華奢な体躯、癖一つ無い流れるような黒髪に感情を映さぬ漆黒の瞳。実年齢はもう三十に近いはずであるが、遠目に見るとその細いシルエットは下手をしたらまだ学生のようにすら見える。

 表面上の愛想はいいものの根本が人見知りであることもあってか、こんな場で親しく話せる知人などいなかった。焼酎は無いのですか、ねぇせめて日本酒は。あいにく洋酒は苦手なんですよ。
 シャンパンを片手に一人ため息をついた。

 ――期待の新星、か。
 まさしく流れ星の如く私は一瞬にして消えてしまいましたよ。自嘲気味に小さく呟く。その作品以来ひとつのヒットもない。おまけに近年のサスペンスブームの煽りも食らい、今や売り上げもイマイチである。
 今年こそはと受賞を狙い意気込んではみたものの、掠りもせず落ちてしまった。乾杯の際に渡されたシャンパンは一向に減らない。
 ……自信、あったんですけどねぇ。

 受賞したのは、サスペンスブームを起こした当人と言われる在日英国人のアーサー・カークランドという、若い青年であった。身長は本田より十センチ高いくらいだろうか。この会場の本日の主役である。
 初受賞ということで彼の周りは人だかりができ、山ほどの黒の真ん中に一つぽつんと高く浮かぶ金の髪はシャンデリアの光を受けてより一層際立って見えた。

 ……麦穂に群がるカラスのようだ。
 黄金に群がる烏合の衆よ、と、会場の歌詞の分からぬ異国語のBGMに心の中で節をつけ歌う。自分の例えに少しおかしくなり口角があがるのを感じた。馬鹿馬鹿しい、自身もカラスの一羽に過ぎぬというのに。

 彼の最初の作品を本田は読んだことがある。とはいえあっさり発売日に読んだわけではない。処女作で世間のスポットライトが当てられた彼の、最初の売り出され方がそれは酷いものだったからだ。
 曰く、金に輝く髪に蒼い瞳をしている若き新星。
 曰く、両親は英国人だが育ちは日本で彼は二ヶ国語を操る秀才。
 曰く――……、
 ――まぁ、この辺りは全て週刊誌の受け売りだ。その下世話な文字の羅列を読んだ時、本田は実にくだらないと呆れたものだった。
 ゴシップという奴は何度同じ過ちを繰り返せば気が済むのか。

 日本の文学界はその頃ちょうど低迷期に入っていた。
 自分が売り出された時のように、この若き異国の青年も文壇の再生狙いの憐れな客寄せパンダなのだろうと考えたのだ。きっと読むに値しない。あの頃の自分の文章のように。
 ……と、世で話題になってからひと月ほど頑として彼の作品を読まなかった。

 だがある雨日のことである。自宅アパートの隣に住む流行好きな主婦が、彼の本を褒めそやしたのだ。
「本田さんはお読みになった? 異人さんのご本! 日本語お上手でとっても良かったのよ、なんだか真に迫るというのかしら!」
 ――ノンノン、奥さん。
 彼は日本育ちなのだから日本語がうまいのは当たり前なのだ、と喉まで出掛かるのをぐっと堪える。どうせ私の言葉なんて届かないだろう。

「そうですか、私はまだ読めていなくって」
などと曖昧に返事をする。
 あらぁもったいないそれでねうちの旦那がね……などと、どうでもいい話を愛想良く適当にかわしながら、心に掛かる靄を振り払おうと必死だった。そうこうするうちマンション前に着き、適当に挨拶をして別れた。

 ……彼は客寄せパンダなのだ。だからいいのだ世間がどう言おうと私が読まなくたって。

 されどそんなことを言われては、どうにも堪らなくなってきた。真に迫るってなんだ。
 これは勉強の為だ別に気になった訳じゃない、と誰に釈明するでもないのに心の中で必死に言い訳をし、雨の中わざわざ買いだして来た食材たちを玄関に投げ打ち、かくして本田は夕刻の雨道を引き返し走った。

 本屋は何時までであったか、と思ったのを今でも覚えている。
 閉店準備に掛かろうとしていた店に飛び込み、心底迷惑そうな顔を隠そうともしなかった本屋の親父の表情もよく覚えている。

 兎にも角にも本田は話題本の最後の一冊を無事買い上げ、文机に茶だけ用意し胡坐をかいて読み耽った。

 読み始めたら、あっと言う間だった。
 気がつけば脇に用意した茶は湯飲みの中ですっかり冷え切っており、部屋の外からは翌日を知らせる陽光が刺し、胡坐を掻いていた足は正座へと変わり、それはもうすっかり感覚など失くしドえらい事になっていた。
 痺れる足に涙目になりながら、そこで始めて自身が寝食すら忘れていたことに気づいた。

 素晴らしい作品だった。

 何が客寄せパンダだ。
 ひと月もくだらない意地を張っていた自分の鼻っ面に渾身の右拳をブチ込みたい、あとあの話好きな主婦に始終適当な返事をしたことを全身全霊で謝罪したい。なんだこれすごいじゃないか。

 内容は、シリアルキラーの視点から描かれた心理サスペンス。
 自分が普段書くジャンルとは違うため、サスペンスにおける定説などはよくわからない。わからないが、犯人の狂気に満ちた飽くなき殺人欲求への生々しい心理表現に圧倒され、殺人シーンの描写に至っては目前で起こっているような錯覚を起こすほどリアルに、吹き飛ぶ鮮血を鮮やかに丁寧に描いてありまさに鳥肌モノだった。

 無論、少々粗削りな面もあった。だが恐らく若さから来る粗さで、こんなものは経験をこなせば自然と解決されよう、と本田は彼の今後を心から楽しみに思った。
 だがそれと同時に脅威を覚えたのも事実だ。二十ちょっとでこの文才。この青年が今の私の年齢まで達した時、一体どんな話を書くのであろうか。

 その本は暫く後、犯罪心理のリアルな描写が評価され文壇に新風を吹き込んだ。

 もう一、二年ほど前になるであろう事を昨日の事のように思い出し、シャンパングラスから視線を移す。あの感動を与えてくれたのが彼なのだ、これからの作品もやはり素晴らしかろう。そう思えば悔しさもなんてことはない。

 会場の主役は真っ黒なカラスたちに囲まれ、困惑しながらも決して嫌な顔一つしない。笑顔にはまだ年相応の若さがみえた。まともに読んだこともないのに、シェイクスピアやハムレットに出てくる育ちのいい王子のようだなと本田は思う。
 あぁ王子よ。三十路前のこの小さいおっさんは減らぬシャンパンに誓います。あなたの新刊は必ずや朝一に本屋で購入しましょうぞ。

 馬鹿な狂言を考えていたその時、視線を感じたのか、ふと蒼い双眸がこちらを捉えた。目が合ってお互い固まる。相手は淀みない笑顔を返してきた。思わず愛想笑いを返す。
 彼は視線を外し、周囲とニ、三言葉を交わした思うとその場で文字通り飛び上がって驚き、ものすごい形相でこちらを振り向いた。

 ちょ。私なにかしましたか、ねえちょっと待って待って愛想笑いの鍛錬が足りませなんだか。あれよあれよと言う間に彼は人を搔き分けこちらへ歩み寄っていた。

「初めまして、先生」
「は、」

 間の抜けた言葉が口から漏れた。
 いやいや、なんですか先生って。初対面初対面、あなたと私ないすとぅみーとぅー。本日の主賓が私に何の用なんですか。
 出掛かった無茶苦茶な言葉の羅列を八橋に必死で包もうとするも、包みきれず口から出ていこうとするのを死に物狂いでひっ捕えて飲み込む。

「本田先生ですよね? 今あちらの方から伺って是非ご挨拶をと」
「はぁ、確かに私は本田ですが……」
真意が読めない。売れぬ作家に何の用だ。周囲からの射るような好奇の視線が痛い。

 とりあえず一通り、定型文の挨拶と祝辞をやり取りをしたあと当然の如く沈黙が訪れ、彼はなにやら俯いてモジモジしだした。
 何だ青年。便所か。むしろドンと行ってくれ。この静寂をその若さで破ってくれ。
 私はというと衝撃の形相で振り向かれたあの瞬間から、既に居た堪れなさの上限を振り切っており、飲めもしないシャンパンを煽り続け、頭がクラクラし始めていた。

「……あ、あの、」
「はい」
はい来た便所来たこれ。行って来い、何なら後押ししてやりますよ行ってらっしゃいほらドーン!
 脳は既にアルコール度数が高まり、考えることを拒否していた。

「……――ファンなんです、俺」
「へ、」
消え入りそうな声だった。

「あ、僕。や、ええと私あなたのファンで、その、」
私より背の高い彼は、可哀想なくらい緊張して顔を俯むかせて真っ赤になっていた。そして、彼より背の低い私は その両の耳の先端まで赤くなっているのが全部仰げてしまっていた。
 すっかり頭の中は真っ白だった。褒められること自体どれだけ振りなのか。耳を疑うところまでいかなかった。なんにせよ頭がふらふらする。

 彼はこちらの様子などお構い無しに、
「受賞作品からずっとファンなのだ、本当に本当に全部読んでいて、すごく好きで、自分が何か書いてみようと思う切欠をくれたのはあなたなのだ」
というような内容の言葉を、至極早口に紡ぎいた。気ばかり焦っているのか次ぐ葉は出ず、視線は赤絨毯を彷徨っては揺らぎ、

 なんだか庇護欲を煽られ、だが私はすっかり酔いが回って気の利いた事も浮かばなかったので一言、
「ありがとうございます」
と、答えた。

 そこでようやく彼は顔を上げ、
「お会いできて、本当に光栄です」
と、目を細め顔をほころばせた。

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***

「聞いてくださいよ親父さんー、褒められたんですよー。あのね今日賞を取った子でですね、なんか若いんですー。真っ赤になって俯いちゃってねぇ。綺麗な色をしてたんですよー」

 嬉しくないと言えば嘘になる。
 事実、その帰路で既に酔っているというのにいつもの居酒屋へ寄って、馴染みになって早数年の店主に心配されながらも自慢する程度には嬉しかった。

 あのあと、彼は再び頬を紅潮させ、
「俺ちょっと便所へ! すみません本当に!」
と、それまでの数倍もの音量で、当初の私の予想であった便所を高らかに宣言し、逃げるように会場から出ていった。

 ――まるで台風のようであったな。
 口元からふふふと声が漏れ出る。アルコールに浮かされた頭でぼんやりと思う。言っていた事は良く分かりませんでしたが、言いたい事は理解しましたよ。褒めてくれたんですねぇ。

 そして一人残された本田に、意地悪な好奇心を隠せない人たちがじりじりと距離を詰めてくるのを感じ、誰に言うでもなく彼の便所宣言と同じ音量で
「さぁそろそろ帰りますかな!」
と言い置き、本田は足早にその場を後にしてきた。

 夢だったのだろうか。今となってはそんな気がする。
 だがしかし夢なら夢で、幸せな夢だ。
 ――私の作品を面と向かって褒めてくれたのは、あなた以来なんですよ。
 呂律が回らず、その言葉はむにゃむにゃと居酒屋の空気に溶けた。苦笑いした表情を見るに店主へうまく伝わらなかったようだ。

「そうだ菊さん。最近物騒だから早く帰って下せぇ、殺人犯がまだ捕まってねぇんです」
 奥方と死に別れ、幼い二人の息子の生活を一人で担うに相応しい大きくがっしりとした体躯と、そのべらんめぇ口調に似合わず、この店主という男は酷く心配性な人であった。

 もともと自分が相手の話に釣られて身の上話をしてしまったせいなのだが、本田が父親に勘当を言い渡されもう何年も家族に会えていないことや、酒を酌み交わせるような親しい友人がいない事をいつも気にかけてくれているようであった。
 いつでも遊びに来て下せぇ、俺らはいつだって歓迎ですぜ。と店主とその子供たちは笑って言った。
 そういう無償のものを誰かから与えられることに慣れていない本田は、店主の気遣いは嬉しいがどうにもむず痒いのであった。

「自分の身くらい守れますよー、弱っちくみえるかも知れませんが私とて日本男児ですよ」
スーツの上から力瘤なぞ見えないだろうに、小さくポーズをとってみせた。
 店主は小さく苦笑し、今度は酔う前に続きを聞かせて下さいね、と本田の帰宅を促した。

 わざわざ店外まで出て見送る心配性の店主に、手を振って応えながらふらつく足を動かす。
 終わり行く夏の風の涼しさが、熱を持った頬に心地良い。高層は風が強いらしく、見上げれば美しい月の表面を朧な雲が流れていく。

 ――殺人犯、ねぇ。
 その話はパーティでも少し挙がっていたし、ニュースにもなっていたから本田も知っていた。
 二年ほど前から川辺で連続殺人が起こっていたのであった。犯行は決まって月の綺麗に見える晩、川原で喉元をパックリ切り捨てられているという。被害者は既に十人をくだらない。
 被害者に共通点がないことや金品を奪った形跡が無いことから、恨み目的や顔見知りの犯行ではなく、ただ殺すことを目的とした、所謂シリアルキラーではないかという噂であった。

 ――なんでよりによってそんなことしちまうんだか。
 わっかんないなぁー……! と独り言が漏れた。職業病と言うやつだろうが、誰かの人生という物語に同調しようと想像することが本田にはよくある。元より空想が好きなのだ。
 なにがあったのだろう、どういう理由でどういう気持ちでどんな決心をして、という具合である。大抵の事柄には理由がありそして理由を知れば、視点を変えることによりその気持ちを汲みとるなど造作もないことであった。

 だが今回の事件は、基本的に温厚で何より面倒を嫌う本田には犯人の心が一辺も理解できなかった。まず、どれほど怒りが湧いても悲しくなっても、例え身内が殺されたとしても本田が殺しを企てることは無いからだ。勿論、生きていれば頭でそういう残忍な想像をすることも時折ある。だが実行に移すなど、天地天命が下ったとしても出来ない男だった。
 人殺しなど、自分の中の一握りの大切な何かが壊れてしまう気がした。
 だいたい殺した時点ではスッキリするかもしれないが、その後死ぬまで自責の念に駆られて暮らすことを思うと、お天道様に頼まれたとしても御免だ。

 おまけに理由も今の所わかっていないときたら、殺人衝動を起こす切欠が全くわからない。でも犯人はきっと若いのではないかと本田は思っている、後先の事よりもその一瞬の欲求を優先している。切り口の深さや躊躇いの無さから想像するに、恐らく男だ。
 川辺の警戒網をくぐって殺人を続けていることから、かなり挑発的な人間だと言えよう。

 そこまで考えて、ふと数年前読んだ小説を思い出す。
 今日受賞したあの青年が書いた、あの最初の小説だ。あれもシリアルキラーの話だった。

 殺人欲求が抑えられない、誰といても孤独な犯人。
 親兄弟からも友人にも、彼は愛情を一心に受けていたのに、ある日ボタンが掛け違ったことで全てを失い、本人も知らず知らずのうちに心は歪み、気がつけば胸元に刃物を隠し夜の街を歩いている。

 世間では何の慈悲も無い冷酷な殺人心理が云々かんぬんと評されていたが、本田は主人公を憐れに感じた。そうやって距離を置き、他人事としてみられることこそが、あの犯人の孤独であり殺人衝動の源であるのに。

 ――彼は人を求めて殺していたのだ。
 人から流れる熱い血潮に、一瞬の安息を求めて彷徨っていたのだ。捕まるかも知れぬ明日よりも、生きる実感の湧かぬ明日に怯えていたのだ。

 いま思い出しても素晴らしい。
 この事件もあれくらいの深みが欲しいところだ。被害者の方たちには申し訳無いが、どんなに非道だとしても少しは人間臭い面がないとねぇと心の中で言い訳する。

「よ……っと」
 まだ夏は終わりきっていないというのに、フライングで鳴き始めた秋の虫の声を聞きながら、道程にあった小石を蹴って歩く。まぁまぁのコントロールだ。

 世辞や嘘であったかもしれない。
 だがあれほど達者な文を書く人間が、あんなに実直で不器用そうな青年だとは思っておらず、ちょっとおかしかった。いい意味で期待を裏切られた。
 そんな人間があれほど懸命に自分に言葉を紡いでくれたことが嬉しくもあり、

 小石に追いつき、蹴る。

 もし演技ならば作家ではなく俳優を目指した方が遥かに稼げるだろう。
 人よりちょっと眉は目立っていたがあれも個性と言えなくも無いし、顔も整っていたしパツ金で碧眼だし、と醒めきらぬ頭で思う。

 また蹴る。今度は加減を誤り、草叢にまぎれてしまった。
「ちぇっ、……ふふふ」
二日酔いになっていなかったら、明日にでも読み直そうと本田は心に決める。

 新たに蹴る石をなんとなく見繕ったところであった。

「、」
 ふ、と立ち止まる。何か聞こえた。

「~~、……っ」

 ――鈴虫の声? いや、それもあるけど違う。
 女性?
 痴話喧嘩かと思いつつも、おかしい。

 相手の声は一切聞こえず、
 耳を澄まさねば聞こえぬような小さな小さな声が絶え間なく続いている。

 これは。

 これは、悲鳴だ。

 小さく舌打ちをする。この心地良い夜に痴漢か、下衆め。

 夜風に当たり酔いもマシになっていた。
 それでもややふらつく足を懸命に走らせ、小さな声の源を探す。
 土手を下って行く。川の水面が月明かりを受け、少し目が眩む。

 人影が二つ見えた。
 ――この馬鹿者め何をしている! それが発せられることは遂に無かった。

 店主には苦笑されたが、本田は本当に腕には自信があった。
 医者である父は大変厳格な男であり、彼に心身共に鍛えられたからだ。母に似て骨格も小柄で女のように線が細く大人しかった本田少年は、とてもじゃないが父の望む豪胆で骨太な男に成長するとは思えなかった。
 見た目を補うためであったのだろう、柔術は元より剣道合気道と一通りの武術は否応無しに体得させられていたし、それなりに喧嘩をした経験もあった。

 自信はあったのだ。
 だが実際はどうだ、この様は。

 本田の目の前二十メートルほどであろうか。
 髪を振り乱した女性は後ろから男の影に捕えられ、左手に持った小刀で喉元を掻き切られた。
 一瞬だった。
 喉から冗談みたいな量の液体が音もなく流れ、男は左手を翻し掴んでいた右手を離す。

 ――どさり、
 女の体は地面に横たわった。ありえない腕の角度をしていた。

 男の影は静かに女を見ていた。逆光となりこちらからは表情は見えなかった。

 悲鳴なんて上がらず、驚くほど静かだった。
 ただ自分の生を証明する心の臓だけが、痛いほどに自己主張していた。膝は地震を疑うほどに震え、本田はその場にへたりこんだ。
 血の気が引いていた。酔いなんてとっくに他所へ飛んでいた。

 気配に気づき、男が振り向く。
 闇夜にぬらりと光る刃物と、月夜を映す場違いに美しい金の髪が川の水面と同化して光り、眩しかった。

 ――私は、この男を知っている。
 蒼い双眸と目が合った。

 数時間前、私の前で赤い顔をして俯いていた青年、
 会えて、本当に光栄だと笑ったあの瞳、
 カラスに囲まれ、年相応に優しく輝いていたあの笑顔が、

 能面のように何の感情も見せなかった。

「本田先生、」

 蒼い目があの時と同じように。

 気がつけば本田は全力で夜の道を走りだしていた。
 転ばないために次の足を出しているだけで、走るというよりは転がると形容する方が近かったかもしれない。

 怖かった。
 自分の名を呼び、何事もなかったように笑った。

 おかしい。おかしい。
 死んでいるのに。殺したのは彼自身なのに。

 ――狂ってる。

「っは……、」
 もう足が動かない。その場に倒れこんだ。
 どれほど走ったであろうか。体力の限界で、口の中は急な全力疾走に耐え切れず鉄の不味い味がした。

 街灯には蛾がたかり、恐ろしい月明かりを誤魔化してくれた。
 ――冷静になれ。
 街灯横にあった公衆電話へと向かう。財布から小銭を出しぶち込み、受話器を取ってダイヤルを回す。ダイヤルが戻るまでの時間がもどかしい。早く、早く。そこまでしてまた膝が震え、へたり込んでしまった。

 ――大丈夫、大丈夫、言える。

 息を吸い込む。
『警察です、どうしました』
眠いのだろう、愛想の無い声が響く。震える声で何とか、川原で殺 人があったことを伝える。
 途端に騒々しくなる、
『どこの川でだ、あなたの名前h、』

 回線が切れた。いや、切られた。
 私の視線の先にはよく磨かれた革靴の先が鈍く光っていた。

 顔を上げる勇気なんてなく、だがしかし自分の目で確認せずにいるのはもっと怖かった。

 ゆっくりと視線を上げる。
 本来受話器を戻す場である、そして回線を繋いでいたはずの突起に、こちらを覗きこむような中腰の姿勢で彼が肘をついていた。

 アーサー・カークランドだった。
 今度こそ蒼い瞳は、哂った。

「こんばんは、先生」

 身が凍る。
 受話器から漏れる回線切れの電子音が、私の鼓膜を揺らしていた。

続.

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