今日は、ケーキを買って帰ります

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「長谷川社長! 西崎さん! おはようございます」
目が合うなり頭を下げると、丁寧な返礼と挨拶が帰ってきた。思わず駆け足で寄っていく。
 今日はいい日に違いない。自分が所属する営業部には、この両名に朝一で会えるとその日の仕事がうまくいく、というジンクスがあるのだ。

「成瀬さんは今日もお元気そうですね」
貴方の調子がよさそうだと安心します、と社長は目尻に皺を寄せ優しく目を細めた。
 その隣で、秘書の西崎はいつも通りツンとしていた。
 スーツの似合わぬ童顔を見て、迷い込んだ新卒と勘違いした俺は初対面で彼女にタメ口をきいてしまい、あげくネームプレートを見てちゃん付け呼びしたのをいまだに根に持っているらしい(『家族でもない相手にその言動は失礼ではないかな……』と後で社長に窘められたのも今となってはいい思い出だ)。

 社長は娘くらいの年齢の秘書はもちろん、自分のようなペーペーの平社員にまで丁寧な話しぶりである。まぁ、日本出身の世界的に有名な野球選手なども子ども相手であれ敬語で話すと聞いたことがあるし、ある一定以上の器を持つ人間というのは結局そういう人なのかもしれない。
 泰然とした笑顔を湛えたこの人はスピーチが尋常じゃないほどうまく、掴みで笑いを取る余裕まであり、飽きて喋っていたはずの人間も黙って耳を傾け、最終的には拍手喝采の大盛り上がりで終わる。
 初めて聞いた折にはその完成度に、(俺たちはなんて頼りがいのある人のもとで働いているんだ……)と感動すら覚えたものだが、普段の社長は実に庶民派である。

 少しでも時間があると社内清掃のご婦人たちに混ざって腕まくりをし、和やかに世間話をしながら彼女たちの背では届かないところを熱心に拭いていたりする。
『社長自ら清掃だなんて。よく聞きますが、成功者の秘訣はやっぱり掃除なんですか』
と社員が問うと、
『いやいや、たぶんなんの関係もないですよ。ただ趣味の掃除がてら教わっているんです。世間でなにが流行っているのだとか、なにに関心があるのだとか』
ひとりで社長室にいたってなにもわからないでしょう、と笑って嘯いたのだとか。
 御年50前後の社長は、黒よりも白の方が目立つ髪をいつも綺麗に撫でつけ、オーダーで仕立てたと思しきスーツは、社長の役者みたいなスタイルの良さをさらに際立たせていた。
 長身に見えるが、近くへ行くとよくわかる。姿勢がいいので実際の身長よりずっと高く見えるのだ。

 カッコいいな、と素直に思う。
 会社の社長でよく働きもちろん年収も良く、よく見れば顔だって充分男前だ。若い頃はさぞイケメンだったろうなと思う。なのにどこか茶目っ気があり、親しみやすい。人柄も良く、部下にも社外の人間にも慕われている。
 自分も、こういった人間になりたいものだ。なかなか難しいのだろうが。

 黒目の大きな瞳と目が合った。俺はいつも通り口角を上げた。
「そうだ、西崎さん! 今度一緒にご飯とかどうです?」
「ご遠慮いたします」
「じゃあ好きな食べ物は? レストランとか探してみるので」
「好物はガムです。一切期待せずお待ちしております」
さすがだぜ……と口から漏れた。されど俺は、こんなことでくじける男ではないのである。

「なにも下心があるわけじゃないっていうか、初対面の折に失礼をしちゃったお詫びをさせてほしいって話なんですよ」
あぁそうですか、とそれは冷たい目でこちらを見返し、心底呆れた顔をして小首を傾げた。
「どうして私が勤務時間外の、大事な自由時間を割いて失礼な言動をした人と一緒に食事へ行かなければならないんですか? そしてそれの一体どこがお詫びになると思うんですか? 理解に苦しみます」
「厳しィ~~……」
「当たり前のことしか言ってません」
 俺もずいぶん嫌われたものである。
 リスやウサギを思わせる小動物的な可愛らしい顔と小柄な容姿に反し、社長秘書の西崎は竹をカチ割ったような性格をしている。社長が言うには6か国語が喋れてTOEICも社内で1番の成績を誇る、決して代わりがきかない人なのだという。

 社長は秘書にこの西崎しか置いておらず、リモートワークが終わり初出社して初めてこのふたりが並び立つ姿を見たときは(娘か親戚の子をコネ入社させたのか?)(お気に入りのキャバ嬢でも登用したのか?)などとロクでもない噂が飛び交ったものだ。
 だがそのうち、彼女のその鬼のような仕事ぶりに俺たちは黙らされることになる。
 西崎はおそらく、社長よりもよっぽどこの会社を愛し、そして仕事を愛する人間なのだ。

 西崎は、パッと左手首の時計に視線を落とし軽い溜息をついた。
「くだらない話をしている場合ではありません」
「くだらないとまで言いますかぁ……」
 社長が深く憐みのこもった目で俺を見た。
 きっとこの元イケメン現イケオジには、人がフラれるさまというのは信じがたい光景に違いない。
「、大丈夫ですよ成瀬さん、貴方は働き者ですしとても魅力的な男性です。人間は星の数ほどいますから、そのうちきっと良いご縁があります。どうか気を落とさず」
「あ、ぜんぜん気にしてないです。なんなら明日も誘います」
と俺が述べると社長は驚いたのか固まってしまい、西崎にいたっては「ではいまからお返事しておきましょう。ご遠慮いたします」と述べた。

「社長、参りますよ。本日も予定が詰まっております」
「そうですか……。お手柔らかにお願いします」
「なにを仰っているんですか。今日は掃除をなさる時間なんてありませんよ」
いい気分転換になるんですが、残念です、と笑いながら去っていく背を、頭を下げて見送った。

***

 開かれた社長室に、会釈を返すのを耐えて歩を進める。
 この重厚感のある部屋には、いまだ慣れない。
 舞台のセットだと思えばいいと、いつも自分に言い聞かせてきた。やたら肌触りのいい椅子を引き、尻を据え改めて背筋を伸ばす。斜め後方に彼女が立ち、持ってきた資料を1枚ペらりと机上に差し出した。
「――では、まずこちらからご確認をお願いいたします」
拝見いたします、と渡された紙に目を通す。実現性はどうなのか、ここはもう少し仔細を問うた方がいいのではなどとやりとりをしていると、すっかり昼になってしまった。
 少し休憩にしましょうか、と述べられ、はぁ~……とようやく溜息を洩らし、姿勢が崩れるのを感じた。
「……掃除をしてきてはなりませんか」
「駄目です」
スッパリ、である。

 新たに生まれた溜息を飲み込みながら、顔を上げる。
「――弊社代表取締役社長、長谷川辰爾氏は偉大ですね」
「社内では気を抜かぬようお願いしていたはずですが?」
誰かに聞かれたらどうするんです、と小声で叱責され、慌てて頷いた。
「承知しておりますとも。ですが心配なのです、皆が思う長谷川辰爾像を、私は崩していやしないでしょうか」
「いまさらなにを仰っているんですか。それにそれは謙遜というものです。とってもお上手ですもの、さすがは元舞台役者ですね」
「やめてください、もう何十年も前のことなんです」
 両腕で顔を隠し恥じ入る私を、彼女はからかうような目で見た。

 キツいなどと社内では煙たがられることもあるようだが、とんでもない話だと思う。彼女がいなければこの会社は存在しえない。私からすれば、彼女ほど会社を想い社員を想い、働いている人間はいないと思う。
「でも本当にお見事です。誰も疑問に思わないくらいですもの」
羨ましいくらいですよ、と彼女は寂しそうに笑った。
「社長、少し考えたのですが……」
「そう呼ぶのは禁止でしょう、そういう契約をしたはずですよ」
減給処分にされたいんですか、西崎さん、と言われ慌てて頭を下げた。

 そう、私の名は西崎。長谷川ではない。本名は西崎薫という。
 家族は妻と、娘がひとり。趣味は観劇、そして窓の拭き掃除。
 私の仕事は弊社代表取締役社長、長谷川辰爾を完璧に演じ抜くことであった。この職に就き、早5年経つ。現役の一般社員である。

 私が演劇を始めたのは、高校の頃だ。最初に観たのは忘れもしない、『ハムレット』である。
『――生か死か、それが問題だ』
との有名な台詞を、皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。

 雷に打たれたような衝撃を受け、私は演劇にのめりこんだ。
 高校大学と演劇を続けたが、同年代だけで構成されるの学内の劇団では満足できなくなり、大学卒業と同時に地元を出てはるばる上京した。そしてそのころ一番力のあった劇団を受験し、受かった。
 演劇に打ち込んだ日々は、いまでも私の心の支えであり宝だ。
 あるとき幸運にも連続で主演を勝ち取った。そしてその公演を欠かさず見に来てくれていた、私に初めてできたファンとひょんな縁から交際することとなり、演劇に恋愛にアルバイトに、そしてなにもかもが存在する都会での暮らしに、金がないなりに充実した日々を満喫していた。

 人生とは本当に薔薇色に見えるのだな、などとそれは感心したものだ。

 だがそう経たぬうちに、その恋人との間に子どもができた。
 お恥ずかしい話だが、今でいう授かり婚というやつだ。近年ではさほど珍しいことではないのかもしれないが、当時のそれは大変なことで、私たちはどちらも親から勘当を言い渡された。
 私は妻と生まれてくる命の3人ではじめる、この新しい生活を守るため、劇団を辞め演劇からも足を洗った。妻は、演じる私を誰より愛した人だったので、
『貴方から演劇を奪ってしまった。どんな名優にだって負けないくらい、素晴らしい演技をする人なのに』
と、泣いた。

 その言葉だけで、もう充分だと思った。
 演者として、こんなに嬉しい言葉が他にあるだろうか。役者としての自分を、こんなにも愛して惜しんでくれる人がいる。
 私は失意の中辞めるわけではない。私をこんなに幸せにしてくれた彼女を、幸せにしたくて辞めるのだ。

 私は彼女を愛していたし、腹にいる子のこともすでに愛していた。
 産まれてきた娘の顔を見たらなおさらそう思ったし、そう思えた自分に深く安堵した。家族を蔑ろにしてでも役に打ち込む、という破天荒な役者もいるだろうが、それは決して私のなりたい役者像ではなかったのだ。
 役者になるのは私の夢だったが、家族で過ごすのは我々3人の夢だ。君も私も観劇が好きじゃないか、産まれてくる子もきっと楽しんでくれるだろう。これから親子3人でたくさん観に行こう、と笑ってみせた。

 だが会社生活は、まるで世界から色が抜き去られたかのように空虚で、これはどうも向いていないようだと早々に悟った。
 これから経験できたはずの、誰かのたくさんの人生が私から失われた。頭では納得できていたつもりでも、体が受け入れられなかったのだろう。
 あの日の選択が間違っていたとは言わない。いまあの時に戻っても、私は必ず同じ決断をするだろう。勤め人となり掴めた幸せだってたくさんあった。娘は健やかに育ち、会社のおかげで安定した給料を得て家族と日々を過ごせているのだから。
 辛いだなんて、口にできない。
 言えば妻はまた気にしてしまうだろう。私たちに似て観劇を愛す娘だって、ことの次第を知れば悲しむかもしれない。

 これは、間違いなく私が選んだ人生。
 喜びも悲しみも、甘んじて私が受け止めるべき私の人生なのだ。

 職場で、別名追い出し部屋なる部署に追いやられたのが6年前だ。
 給料も大幅に下がってしまうことを妻にどう報告すべきか、と私はよく公園のベンチで項垂れていた。娘の大学の授業料だって、ボーナスから充てるつもりでいたのに、とてももらえそうになかった。
 だが考えたとて仕方ない、私は社内の出世コースから、入社当初から外れていた。やる気のない人間にそんな道を与えてくれるほど、社会は甘くなかったのだ。
 このまま歯を食いしばって耐えるか、転職するほかない。
 幸いなことに、私は変化が苦にならない人間だった。新しい人生を生きるようで、むしろ転職の二文字を見て不謹慎にも胸が躍った。転職しようと思う旨を妻に伝え、それからは休憩時間になるたび求人票を見漁り、有休を使いながら面接へ通った。

 重ねすぎた年齢のせいか、それとも私の会社員としての意欲の低さが見透かされていたのか。理由はなんにせよ、現実はなかなか厳しいものであった。
 積み重ねてきたものがなさ過ぎて、転職したらさらに給料が下がってしまう。
 転職して年収の維持やアップが期待できるのは、しょせんスキルのある者だけだったのだ。

 だがあるとき、私に転機が訪れる。
 その求人には珍しいことに、年齢が中年であること、ある程度見た目に貫禄があること、秘書資格を有すること(幸い若い時分に秘書役をするにあたりすでに取得済だった)、名前が中性的であること、とあった。
 おかしな募集要項だった。まるでなにかの演者の募集のようだ、と私は苦笑した。
 中年男性の求人なんて珍しい。ただ、年収は悪くないわりに中間管理職ではなく一般社員の求人なので、これはなかなか穴場かもしれないと思った。
 会社員としてのプライドなんて、もともと出世街道から外れていた私にあるわけがなかったのだ。

 ホームページには、建てられたばかりの真新しい建造物が載っていた。会社ができてから数年、ずっとリモート体制で全員が働いており、最近慌てて建物を構え、これからここで働くことになるのだとか。
 ベンチャー企業のようなものだろうか? と、よくわからないなりにホームページを読み込み、当日の面接に臨んだ。

 いまでも、あのおかしな面接を夢に見る。

 面接官はいまこの斜め横に立つ彼女で、彼女は私の履歴書を見て、
「観劇がご趣味なのですね」
と述べた。
 彼女も観劇が好きだそうで、「シェイクスピアなら『リア王』が好きです」と言った。こんなお若い人にもシェイクスピアが愛されているなんて、と私は心から嬉しく思った。
 リア王の台詞を諳んじてみせると、彼女は目を丸くした。
「――お上手ですね、まるで舞台を観に来た気分になりました」
昔取った杵柄である。世辞だったろうに、久方ぶりのことで思わず嬉しくなってしまった。
 若い時分に演劇を少し齧っていたのです、と懐かしい気持ちで話すと、彼女は顔色を変えた。

 慌てて紙を一枚持って寄ってきて、言った。
「……こちらを、読みあげてみてもらえませんか」
不思議に思いながら会釈し受け取ると、なにかの授賞式の挨拶のようなものだった。

 台詞をまた与えてもらえる日が来るなんて、と胸が高揚したのを今も覚えている。
 世辞であれ台詞を褒められ、嬉しかったのも大いにあるだろう。私はなにもかもの才能から見放されてきた不器用な人間で、人に褒められるのはせいぜい舞台に立ち、演技をしているときだけだったのだから。
 ざっと目を通したところ、ずいぶん老成した人間が書いた文章のようだ。あれこれと他国の古典的な教養がさらっと織り込まれており、これは若い人にはなかなか意味が伝わらないんじゃないだろうかと思う。

 書いたのは私くらいの年代の男性だろうか。
 ――よし決めた、これは同年代の男。役作りなんてこの場では必要ないだろうが、やりやすさが一番だ。

 私はいま、社員数百人を抱える、できてからまだそう年数も経たぬ会社の社長である。これからめでたい席に湧く大衆の前で、家族と社員に心からの感謝を込め演説する。
 この会社をもっとよくしたい、もっと大きく育てたい。そして、これからの社会をもっとよくしたい。

 台詞からいまにも溢れだしそうな熱意を、しかと受け取った。

 気づけばその場に立ち上がり、原稿を机に伏せていた。
 吸う息がわずかばかり震え、内心苦笑する。こんなに緊張するなんて、初舞台のとき以来だ。

 私が語る長台詞を、目の前のたったひとりの観客は目を見開いたまま聞いてくれた。
 語り終えると、その人は割れんばかりに拍手をしてくれ、私は夢から覚めたかのように急に気恥ずかしくなり頭を掻いた。
「拙いものをお見せしました」
「――とんでもない。完璧です、素晴らしいです!」
彼女は顔を興奮で紅潮させた。
「ぜひ私と、私たちと一緒に仕事をしてください!」
「、ありがとうございます、こちらこそぜひ働かせてください」
 なんたる功名か。
 演劇がまさか今になって私の窮地を救ってくれるとは。短い間ではあったが、熱心に取り組んだあの日々は決して無駄ではなかった……と感極まっていたら、
「実は西崎さんに、ひとつお願いがございます」
と、打って変わってそれは厳かに述べられた。

「? はい」
「秘書資格もお持ちの西崎さんに、このようなことをお願い申し上げるのは大変失礼かと存じますが、」
「? とんでもない、どういったことでございましょう……」
 心臓が早鐘を打っていた。なにか嫌な予感がする。椅子が、自分の汗で急にじっとりと湿ってきた心地がする。

「西崎さんには私に代わり、ハセガワ タツミになっていただきたいのです」

 意味が解らなかった。
「……。と、申しますと?」
「改めましてご挨拶を申し上げます。弊社で代表取締役をしております、長谷川辰爾と申します」
驚きすぎて、椅子から尻が浮いた。
 あれはタツミって読むのか、てっきりシンジだと思っていました、などとどうでもいいことを口にしかけ、明らかにそんな場合ではない真剣な顔をなさっていたので慌てて頭を下げた。
「、御社の長谷川社長でしたか、これは、お顔を存じ上げず、大変失礼を」
「ご存じないのも無理のないことです。ホームページにもインタビュー記事にも、私はこれまでどこにも顔を明かさずにきましたから」
お気になさらず、とサラリと述べた。

 それで、長谷川辰爾になれとはいったいどういうことなのか。
 こういうとき、当たり前の疑問ほど、自分が思う以上にうまく言葉にできないものなのだと知った。

「演技を拝見する前から思っていました。貴方は信用に足る方なのだと。とても誠実な人柄とお見受けしました」
「、恐縮です」
見掛け倒しとか、性格だけよくても、と陰口を叩かれたことはあるが。まともに褒められたのはいつぶりだろうと思う。
 妻か娘以来じゃないだろうか。
「これまでずっと、弊社はリモートワークをしてまいりました」
「は、存じております」
会社のホームページで拝見済みである。

「されどこのやり方が、これからは難しくなくなると思ったのです」
 世界的に広がる流行り病を理由に、会社設立時からずっと全社員リモート業務で通してきたが、対面でのやり取りを重視する人間はまだまだ多くいる。特に他社とのやり取りにおいては。
 その際、私のこの子どもっぽい見た目は、ようやく軌道に乗ってきた我が社の足を引っ張りかねない不安要素なのだ、と長谷川社長は述べた。
 なにせたった数年で、急成長した会社なのだ。
 自分が舐められてしまえば、やり込められると思われてしまえば、よくない輩に会社を乗っ取られることも充分ありえる事態だと言った。
「……私が侮られるのは、構いません。もちろん腹は立ちますが慣れております。されど、それが社にも及ぶのなら話は別です。なにかあったとき、これまで立ち上げから軌道に乗るまで尽力してくれた社員たちを、果たして守りきれるかどうか」
こんなに悔しそうな若者を、私は見たことがなかった。

 あのとき私は(……あぁ。さっきの熱意溢れる演説を書いたのは、目の前の彼女なのだ)と確信した。
 彼女は会社を愛し、そして社員を愛し、関わる皆を守りたいだけなのだ。

「……長谷川社長。私は、演じることだけはなにより自信がございます。御社の代表取締役社長、長谷川辰爾役、謹んでお受けいたします」
幕が下りるまで、完璧に演じきることをお約束いたします、と言ってしまった。

 ――そして、現在に至る。
 私は社長の名で社長のフリをして働き、社長は私の名で秘書のフリをして働いている。
 いまのところ、誰にも疑問を呈されたことはない。

***

 私の名は西崎薫。
 家族は妻と、娘がひとり。趣味は観劇、そして窓の拭き掃除。
 弊社社長、長谷川辰爾を支える社長秘書として雇われ早5年。
 転職してから、いまだかつてないやりがいを感じており、これからも守秘義務を順守し誠実に働いてゆく所存である。

「あ、いけない。すっかり忘れておりました」
「、なんでしょう。まだ書類が残ってましたか……」
 暇さえあれば、自分がいないときでも誤魔化せるように、とあれこれと説明を受けている。だが、社長と私では自頭が違いすぎてはっきり言ってさっぱりである。
 立ち居振る舞いだけで勘弁いただきたいものだが、社長からすれば、ハリボテ役とはいえ社員のひとりを無能のまま放っておくわけにはいかないのだろう。
 ガッカリしながら声を絞り出すと、いいえ? と首を振った。
「いつも大変楽しみになさっているものですよ」
どうぞご確認を、と封筒が渡され、『賞与』の表記を見て拳を突き上げかけ、耐えた。
 何食わぬ顔でレターオープナーを手に取った。

 妻よ。
 君に、二度と演技を見せてやれないことだけが口惜しい。だが私はいま、役者をして生計を立てています。昔、君と見た夢を叶えています。

 先月行われた受賞記念パーティでの演技が評価され、臨時ボーナスが支給された。
 今日は、ケーキを買って帰ります。

Fin.

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